心と体

2013年8月 6日 (火)

其の26 堂々めぐりの身体、とまどう体~1





私たちが抱える困難は、
身体の問題であれ心の問題であれ
境遇であれ、そのいずれも
容易に抜け出されずに、逃れられない強迫性をもち、
どうにもならない無力感に塞がれたまま、
身体だけの問題に納まらず、
心のみの自己解決では容易でなく、
どうジタバタしても、まとわりつくように
絡み合った、おのおのの境界を越えた
連鎖の中にうずまってしまっている、、、。



たとえば、
新型うつと云うのは、
非常に捉えがたい病症である、、。

自分の興味や熱意が向くものなら
どんどん動けるけれども、
少しでも負荷がかかりそうなものについては
とたんに身体が動かず、気力も喪失する、、

これは病気なのか、、?
誰だって、気が向かない嫌なことに向かうのは
身体が重く、気持ちも先に動いてゆかない、、
それを、ただ、いやいや、と
スイッチを切ってしまうのは
ただの気まま、わがままの
怠け者なのではないか、、、
と、「普通」に生きている人々は思う。


心に負荷がかかりすぎれば
身体は変調を現わしはじめる、、
その変調を解くのは容易でなく、
一般的には対症的に、今、過敏で休められない身体や精神を
薬物療法でなだめるしか手を打てない、、。

得体のしれない新型うつも
同様の方法論しかもたないのである、、



体運動の構造の視点から、
このような身体を観れば
腰椎5番は弾力を失ない奥に引っ込み、
骨盤はガバッと開いて後屈している。

骨盤の後屈による負荷は腰椎4番を
硬直させ、限りなく5番側に下がってしまい
くっ付いて棒状を為している、、、
あれっ、、!?5番は?
となかなか当たらないが、ふにゃっと
まわりの筋や脂肪に隠れて、頼りなく
奥の方でちょろっとぶら下がっている、、、

場合によっては、
後屈の負荷を腰椎3番が耐えて、こらえて
捻れたまま可動性を失ないつつある身体もある、


問題はこのガバっと開いて後屈した骨盤が
ゆるゆるの大きめのおむつカバーを着けているような
この身体は、
まったく逡巡したまま、どこに向かうのか
どこに行きたいのか、決意できない体である点なのである。

もともと、腰椎5番の「引っ込み」は
4番の問題の肩代わりとも、元来が弱腰のくせに
4番の荷物を背負わんとしたがためでもあり、
4番が1番の叱咤か、3番の激励にも
耐えられなくなった時、
がくんと、ともに崩れ落ちてしまった結果である、、、


このような身体では、
まず動けない、、

いや動けないのでは、あるけれど
動こうと思えば動くことはできる、、
しかし、動かなきゃと思う観念が
身体に結びつかないのである、
自分の体なのに、、、。

このもどかしさは
腰椎5番の力が抜けてしまっていれば
当然感じられる頭と体の距離感である、、

5番が抜けた6種的傾向(体癖的分類)とは、
このようなもどかしさであり、
当人にとっては、
頭の中にできた庭を、思い通りに
しつらえることだけが、唯一
自分が生き、動いている感覚と
いえるのである、、。

当人は頭の中に作り上げた庭のガーデニングにしか
集注できないのであるから、
このもどかしさは、
周りの人間こそが感じる
もどかしさでもある、、

しかもここに、腰椎4番が連動して
骨盤が開いたまま固まってしまっていたなら、
きわめて自己中心的にしか
行動できないし、集中力が持続しない、、

この6種的な頭の庭の築造は
大変な熱中と収集力で
運営されてゆくのである、、、、


頭の中の世界って、、、
じゃあ、上下型(体癖的分類)の大脳昇華型と
どう違うの、、?と云うとことであるけれど、、、

上下型は、頭の中に庭は作らないのであり、
1種の頭の使い方は、
系譜的であり、道順を持った地図を
進んでゆくことであり、
2種の、それは
頭の中に蜘蛛の巣を張り巡らすかのような
使い方をして、
結局、自分がその網目に引っ掛かり捉われてしまうのである、、、

もちろん、
体の不調、違和感と云うものは
どんなに、頭の中で増幅して感じようが
明らかな痞えツカエとして、身体に刻印されている、、

筋肉や腱や筋膜やらの硬直や弛緩が生まれているし、
ごく小さな部分的な弾力の無さであっても
身体にとっては、不愉快で不都合な
全体のバランスを崩す可能性のある
修正すべき部位、ポイントとなるのであり、
これをかなり明確にはっきりと頭、意識に伝えるのである、、。

これらの「症状」は検査や投影画像などでは
捉えきれない、、
このような粗い観察では、その大まかなザル目からは
零れ落ちてしまうため、
いやあ、異常ありませんね、、様子を見ましょうか、、、
で、終わってしまうのである。

そして、このような
不愉快な感覚は、「ここっ!」と云う
特定部位が伝えられないもどかしさを持っている、、

だいたいこの辺が、何か詰まったような
苦しさ、、だるさ、、疼痛感、、がある、
と云うように、その部位を特定できないのである。

首周辺、頭の過敏傾向、肩あたりの上胸部などの
全体的な過緊張状態が続いている身体は
特に、部位的な鋭敏な感覚を
ウツロにさせる、、

身体気圧的に言えば、
いわゆる「気が上がったまま、固着している状態」だと
身体のあちこちの異常感は、
大まかな何か拡大された違和感としか
伝えられないもどかしいさがあるのである、、。

頭と身体が繋がらない、、

身体の動きが、頭からロックを掛けられている、、
この思うように動けない、もどかしさ、、
変わらない、じれったさ、、、

頭が体にロックをかけているというより、
頭の中のロックが、身体の連携にストップを
かけていると言えるだろうか、

頭の動きが
まるで、身体に波状的に
浸食しているかのような干渉が
身体のきわめてシステマティックな
調整機能を混乱させるのである、、。


頭の動きと、身体の統制的で機能的な単純化された
動きは、異質な特徴をそれぞれ備えている。
身体は、いくつもの危機管理的な複層的な
備えを段階的に用意してはいるが、基本は単純化された
5系統の動きに集約して運行している、、
頭は、何と云うか
縦横無尽と云うか、自由気ままと云うか
同時に複層が、並走して動くなどの
捉えがたい、予想のつかない動きを
常にしているため、これらは
首と胸によって、語法変換されて、
信号を行き交いさせる必要がある、、。

そのため、常に柔軟な
首と胸を保っている必要があるのである、、


この調和が崩れる、、、

ヒトと云うものは、
特殊な進化をしてきたけれど、
この点においても
他種にはまず見受けられない
このような混乱を、よく呈する生き物なのだ、、




この夏、
この頭と身体の不調和の
きわめて近似的な状態が
続いている、、

夏と云うのは
身体気圧的に云うと
気が上に上にと上昇し、
頭部にこもった気熱が
頭部から頭頂にもくもくと、
抜けてゆくのが、
理想的な運行なのだが、
これが、頭頂部からずれて
やや前部とか、左寄りだとか
右寄りだとか、後部にずれたりなどすると、
そのまま気熱がこもって、
頭や上胸部の過敏緊張傾向を生み出す、、

一過性のごく初期的な段階であれば、
不快さや違和感は、
この上胸部から頭にまつわる不快となって
感覚されるが、、
緊張状態が硬化して長引き、潜在化すると
胸の圧迫感や動悸や細動や
息苦しさ、めまい、頭重などの
範囲が広くポイント的でない帯域的な
不快感、異常感となってゆく、、、

このような状態に進行する前に
肋間筋や肋骨そのものの硬化が始まり、
片側が下がってきているのだが、、
当人はこの段階では、気付けない、、、、、




梅雨の始まりには、例年
皮膚の再活性化がすすめられる、、。


今季の梅雨明けは、ここ最近に珍しく
素直な幕開けだったように思う。

じとじとした空気感といきなりむくみ、ダルついた肌と
ちょっと動けば汗がダラつくといった
久しぶりの湿度感のある梅雨明けであった、、。


その後、今一つな展開で
じとじと感がいまいちだなと思っている間に
かっと、7月の初旬に俄かの熱風とともに
夏に突入してしまったが、、、、


皮膚はたるみ、むくみ、
感覚が鈍化する感じがあるけれど、
盛んに新陳代謝を繰り返し、
廃用と再生を準備する、、

真夏の排熱と発汗、
冬の寒さと乾きに耐えられる
皮膚をしつらえるのである、、。

手技を生業とする私たちなどは
この梅雨の時期に、手のひらの皮が
剥けはじめ、何倍もの鋭敏な
新しい皮膚をもらいうける、、、


皮膚が活性化し、再生を図るとは
頭部の過敏な傾向がしばらく続き、
また泌尿器系等の活発な活動を
指し示す、、。

梅雨が明ける頃、、
泌尿器系等の草臥れがピークとなって、
呼吸器の盛んな活動でこれを補い、
代謝運動の最も大きな振幅の時期を
乗り切ろうとする、、、


この夏の身体の
基本の構えとして
骨盤は、2月くらいから
徐々に段階的に開きはじめ
大きな関節である頭骨や肩甲骨も併せて
開方向に運行を進め、
皮膚は弛み、開いて、汗や分泌物や内外のガス交換も
盛んに行なわれてゆく、、、、



夏の皮膚の動きは、まさに
最前線であると同時に総司令部でもあり、、
八面六臂の活動を繰り広げる、、が、
泌尿器と呼吸器の感覚器としての
先鋒でもあった皮膚が、
今季のように、急激な高温と熱風にさらされ
ガバッと骨盤が開いてしまうと
にわかに鈍り、汗が痞え、塩を溜めていってしまう。

温度上昇で、気熱がますます
頭部に集まってくると、
総合的なバランス感覚で優れた
皮膚の思考頼みの頭は
鈍って感覚を欠いた皮膚への
過剰な信号を送り続け、
切ったり、ぶつけたり、湿疹を吹いたり
膿瘍の過度なエネルギー転換を図る、、。


この皮膚の感覚を失調するということは
実は、文字通り外的な刺激に対して、
鎧化して交渉を絶ってしまうということに
繋がってゆく。

自分の周りの環境との間に鉄門を下して、
コミュニケーションを取りたくなくなるのである、、。



身体は一挙に、堂々めぐりの状態となり
頭のロックがかかってくるのである、、、、




ヒト特有のこの頭の動きの浸食については
また、次回別の視点から
お話しを続けることにしたい、、、。






季よみ通信~白山サイド

















2013年6月21日 (金)

長い間、、、。




突然の長いブランクを、お詫びいたします。、、

と、また唐突にお詫びからとなったが
様々な要因が重なり、長く休載することになってしまった、、。


やっと、復活のめどが立ち始めたので
ここに再開の告知をしたいと思います。

7月には、また再び白山の指田さんとのコラボを
額に汗を滲ませながらも
楽しんでまいりたいと考えております。

皆様、よろしくお願いいたします。


けれど、ずいぶんと
骨休めとなる休暇となったようで、
頭の中ではいろいろと、構想が
飛び交いしている、、。

それに、この半年の奇怪な停滞にも
見事にリンクしてもいたと

今となってハッキリと確認出来た
休養であったようなのである、、。


では、また来月に。


















2012年10月18日 (木)

其の22 無意識の連絡通路




通信の其の21で、
指田さんから、バトンを渡された格好であるが、
私に何か特別な回答があるわけでもない、。


けれど、身体運動の術化においては
意識と無意識の配分というか、
無意識の連絡が、肝心要の“カギ”とは、なるのだ、、、。



一般には、意識と無意識の
関係は、主と従と考えられている。

意識が主体であり、、
無意識は、意識につき従いながら
これを補完し、意識の目的を貫徹する、
あるいは、
意識の澱オリでもある、心的なストレス群の
貯蔵庫として、まるで吹き溜まりのような
悪露の沈む漆黒の瓶カメのようなものとして
あると、捉えられている、、。



無意識の本当の役割が、何であるのか
判らなくても、無意識の巧妙な
手配は、微に入り細に渡っている。



私たちが、ひとつの型や決まり事を
覚えてゆく過程と云うものは
どのような順路をたどるのだろう、


たまたま、伺った
新聞配達員の方と、ギター教室の先生の
人がものを覚える道筋のお話しが全く同じ
言葉であったのに驚いたことがある、、。


配達経路の道順も、
複雑なコード進行理論も
最初こそ、
夜道を、消えかかりそうな提灯一個で
暗黒の中を及び腰で進むようなもので、、、
複雑怪奇な世界に紛れ込んだような、
不安と途方の暮れようで、
先のことなど、考えもおぼつかず
目前のことしか視野に入らない訳なのであるが、、

けれどある時、、、
何度も何度も同じ道、同じ練習を繰り返しながら
なお暗中のなかであったのが、
まさにある日、、
全く突然に、視界が開け、
すぽああ、と俄かに頭の中に順路と道筋が
最初から最後まで、いっぺんに
イメージでつながり、描けるように
なるのだと、いうのである。


確かに、仕事と云うものを
覚えると云うのは、
ある時から、次に進む手順が
ぱああ、とイメージで描けるようになることである、


これは、脳内の神経細胞間でシナプスが
盛んに道筋を探しながら、
ある時、一瞬の連続発火でニューロン間を
電気信号が疾走したのであろうが、
意識からの断続的な、刺激に
無意識が実に丹念に連絡路を準備した
結果といえるのである。


何らかの形で
誰もが、一度は経験していることなのである。


このような、閃きであるとか
判った!!と云う瞬間であるとか、、
何か降りてきたー!とか、
これら一切が、意識~「自分」にとっては
圧倒的な覚醒感覚を持つので、
何か特別な回路が開けてしまい、
すばらしい未来が待っているかのような
感覚に惑うのであるが、、、




私たちの日常動作と云うものは、
7~8割は無意運動である。

一挙手一投足を細かく、意識しながら
動いているわけではない。

ある動作に伴う意識的な形式は、
何度も繰り返すことによって
習慣的な無意動作におりてゆく、。


何も、いちいち意識化しなくても
目的だけ明確であれば、
知らぬ間に、身体が動いていて
ちゃんと、正確に作業しているのである。

意識的な形式が、
無意識化されたと云うことであるが、
このような身体にくっ付いた無意識の動作と云うものは
状況が変わって、新しい形式になっても
つい、知らぬうちにやってしまっていて、
習慣的な無意動作の正確さと危険を
ハタと知るわけである。


指田さんが指摘されているように、
活元運動などによる無意運動系の訓練を積むことで、
この無意識化の流れと
意識的変換が実にスムーズに
必要に応じて、サッと表現されるように
なる訳である。



これらのことは、
逆に言えば、無意動作化されない
型や形式と云うものは、
まさに、使い物にならない、、
と云うことなのであり、
過剰すぎる意識の反復は
無意識化をさまたげるモノにもなる。



意識と云うものは、
明滅する瞬間の「目覚め」に過ぎない、ともいえる。
一瞬いっしゅん消えて無くなるものの
残像をつないで、「自分」がつながってあるように
思っているだけなのである。

ちょうど、TVの映像がそうであるように
一コマ一コマの画像が、明滅してコマ送りされると
目の中の残像が、あたかも繋がって動いているかのように
錯覚させるのである。

「私」と云うものは、さように不確かなものなのだ。

それを、つなぎとめ、一連の連続した「私」に
錯覚させるものが、無意識であり
身体に密接に連携、反応する無意運動系と
云うものなのである。


このため、意識と無意識の双方の関係は
そこに微妙な按配が、必要であり、
それが重要なミソとなるのである。

過剰な意識の反復は、
無意識化に降り立つのを妨げて
脳内の関連部位への連絡を
途絶えさせてしまう。


形式や「型」と云うものを覚えるには
ちょこちょこ、チコチョコと無意識の連絡通路に
引き渡しながら、次々忘れてゆくつもりでないと
「型」にならないのである。

あらゆる記憶は、動作と五官の感覚を同時に伴うことで
確実に仕舞いこまれてゆくものなのだ。



この意識と無意識が往き交いする
微妙な按配を可能にするには、
繰り返しになるけれど、
無意運動系の鍛錬を経なければ、
なかなかスイっとはいかない、、。

最も近道で、感覚的である
活元運動をよく訓練されることがまず、第1歩である。
と、いえるのである。



さて、あらゆる動作を丹田で動く、とは
どのようなことかと、云うことであるけれど、、、

丹田で動くとは、足裏で動くということになる。

全ての動作において、
足裏を捌くことで、動きを図ってゆくのである。

たとえば、指先である部位を押圧するにしても、
足裏を決めて、押すと云うことをする、、

足裏に意識を持ってゆくということでもあるが、
足裏で捌くとは、、?と問われても
上手く表現しがたい、

かつて、明治以前の日本人が
普通に動作していたすり足のような
足捌きでもあるともいえ、
足裏の運用法でもあるといえるし、
まずは、実践されることをお勧めしたい、、。



しかし、あらゆる実習は
無意識の連絡通路にそのたびごとに
引き渡しておくべき、なのである、、、。






→季よみ通信 ~白山サイド













2012年9月 5日 (水)

其の20 可動域の狭窄 ~全てを生かす、全生の至難



長い休暇を利用して
芭蕉のように古道の山道を
歩いてきた。

芭蕉は、10時間で30キロあまりの道のりを
踏破する健脚であったという、、。

決して平たんでない、山坂を
黙々と、、、
否、ポツリぽつり
時として軽口や箴言を
呟きながら、進んだのだろう、、。


私も、
今にして思えば、
何でもないと鷹揚に構えていた節があった、、
日頃の自分の身体の動きから
妙な自信を持っていたのだ、、、。



20分も歩くうち、
おかしいなと思い始めた、、、。


平たんな道ではない、、
石が敷かれてあったり、
数日前の大雨に、土が流れていたりする
デコボコな道が、
上ったり下ったりであるので、
やおら足元に慎重になり、
カツカツと頭の上で燃えさかる
日の照りつけに、体力を
かなり費やしながらの行程なので
下肢の筋肉や腰の運動の
かなり限定された動きになっていたのかもしれない、、、、。


1時間も行かぬうちに
右膝に違和感を覚え始めた、、。


経年の蓄積疲労が気づかぬ間に
身体の裏側にため込まれていたのだろうと
フと、思った。

これは、なかなか厳しい道行に
なりそうだなと、珍しく
不安がよぎる、、。



数十分も行かぬうち、
急速な悪化で、ほぼ体重が
掛けれないほど、
激しい痛みが走る。

ずいぶん酷使してきたんだなと思う。

仕事がら、ひざを折り曲げて使う
正座姿勢が多い、
毎日、この姿勢を取り続け、
正座を起点に、所作の動線が
描かれる生活だ。

膝の弾力は、保っているし
大丈夫だと、妙な自負が
いっぺんに覆される、、。。



道は大きく下り道となり、
この勾配のある坂道を進むのは
かなりの困難を呈しはじめる、、

もはや、
趣きのある森の中の古道を
フィトンチッドに抱かれながら
ゆったり、葉のさざめきや
鳥の声や蝉しぐれに身心をゆだねて、、、、

などと云う、当初の
目論見は一挙に崩壊し、
悲鳴と苦行の
道行となってしまったのだ、、、。



時々、道は平たんな舗装道路を
横切ったり、少し進行したりする、、
この時が、痛苦によじれる下肢の
わずかな休息の時である、、。

道が平たんであれば、
痛みはずいぶんと遠のく、
このような小休止や
途中何度か立ち止まり、立ち止まりして
何とか、
「騙しだまし」の行脚が続く、、、、。


途中の舗装道は、
車道でもあり、バスが運行している。
残りの行程を、何度
バスに乗って、近回りしようかと云う、
誘惑に駆られたかしれない、、、




我慢を重ねて、3時間を経ようと云う辺りで
やっと、中継点である宿場近くの
里道らしい道なりになってきた、、。

行く先の目途、、
目標へのわずかな手がかり、、
手が届く範囲、と云う確信めいたもの、、
このような道しるべが
萎えて萎みきった身心に
活力と希望を与えるものである、、。



けれど、、、
これほどの痛みを
身体は、どのようなメカニズムと
方法論で、仕舞いこんでいたのだろう、、、?

表面化すれば、明らかに
使い物にならない膝なのである、、

そのデッドストック化されたジャンク部位が
ごく限定化された運動帯域で、
いまや表面化してしまった、、、




ほのかな先行きの希望が
灯ったすぐ後に、また土面の流れた
下り坂が始まった、、、

ここで、そろそろと足を運びながら
何とか前に進もうとしていると、
フと、ある感覚がにわかに、、
突然に閃くように身体に落ちてきた!


思わず、腰を開き
がに股の大股歩きで、
街道をワラワラーと、闊歩するかのように
坂道を下りだす。

大腿部の大きな外転と
腰椎中央の捻れを合わせた
大きな身体の運用である、、。


不思議と身体に快適な感覚が
生まれている、
快活で躍動感が出て、
さかさかと、足を運んで行ける、、、
なんといっても、
驚くべきことだが、
膝の痛みがまったく消失してしまっている、、!!




人が二足歩行によって得た
運動領域の拡大は、
他の生き物からすれば、
驚異の発展だったに違いない、、、。


型フォームによる体捌き(サバキ)から
生み出される自在な動き、
動きの要求から開拓される道具、
身体の延長としての道具は
やがて思念の生活形態化へと
発展してゆく、、、。


すべて、動きの自由さが
生み出した進化なのであった。


動きの開拓、
能力の最大限の開花!!


空想の中では
あらゆる関節は270度の
全方位の動作が可能なのである、、、

私たちの頭の暴走は
これを360度にまで開放して
現在の社会形態を作り出そうと
してきた、、。



けれど、
私たちも身体も、
そしてこの社会も
全方位の動きなど
出来はしないのである。

空想も、
全方位の自由さは
持ち得ていないのである、、。


あらゆる動きは
限定的にしか使われない。

思念の偏りは
限定的にイメージを
生み出すのである、、。

最も理想的な
空想上の筋肉の配分と関節の
自由さで、
動作できる人は
世界に存在しないのである。


限定的にしか使われない可動域は
個人の先天的な能力の偏りや
感受性の偏向によるもの
だけれど、、、

可動域が使われずに狭まるごとに
持っている能力さえも
使わずに済まそうという
狭窄化が進む、、。


使わなければ、能力も
可能性も萎んでゆく、、、
廃動萎縮、、
廃用性萎縮と云う
身体の効率化が
進められてしまうのである。



人の人生も、身体も
可動域の狭窄化によって
かなり、規定されてしまっているのだ。


私たちは、かなりの部分で
持てる能力の数十分の一くらいしか
使っていない、、、。

狭窄化によって、
限定的な一部の部分や方向の
使用頻度が増すばかりで、
やがて、過度な負荷が
機能疲労を起こし、
毀(コワ)れてゆく、、、。

この時にいたって、
やっと身体は使っていない機能や部位で
これを補おうとする、、
きわめて粛々と、、
当人の気づかぬうちに、、、。


可動域の狭窄とは、
環境における
人格や性質の規定についても
同じ構造を持っているといえる。

親や自分自身の
先入主や決めつけ、
認められ方によって
心も体もその方向性を
規定されてしまうのだ、、、

私は、こんな人間だ、とか
この子はこんなんなんでね、、、とか
言われながら、
限定された動きしかできない、
欲求しなくなれば、
使えるのに使わず、
そのまま萎縮して、
可動出来る幅は、どんどん狭まってゆく。


私たちの人生は
可動域の狭窄によって
知らぬ間に
自らの人生を規定して
狭い道を、狭い視野で
進むしかなくなっているのである。

私たちの持っている可能性、
十分稼働するはずの能力は
眠っているのだろうか、、?

否!!
身体は、可動性を狭めたその
部位ではなく、全く別の、、
その根っこのところと云うか
対応する離れた場処に
いつでも復元可能な
補完的な動作を受け持つ
修復体系を作って、
常に待機してあるのである。


私たちは、痛苦と云うものから
逃れるため、
いったん何処かに痛みを感じると
なるたけその部分を使わないよう、
動作を狭め、小さく使う傾向がある、
逆側の手足を用いたりして
庇(カバ)うのである。


これらは、
道理を得た方法ではあるが、
実は、その部分から遠い処に
それを補い、
動作を復元する
大きな動きによる修復的可動域が
必ずセットとして
準備されているのである。


かなり頭を柔らかくして
俯瞰(フカン)しなければ
見つからない、
オッと、びっくりするような
処に隠れているのである、、

けれど、
それは慣れれば
「見える」ものでもあるのだ、、、。



身体は、毀れたもの、
受容しきれない痛みを
ストック化し、
可動域を狭めながら、
生命の運用を続ける、、

可動域を限定化するのは
効率的で省力化でもあるし、
何事かの非常時には、
余力を有しておける、と云う
利点もある。

けれど、逆に
廃動萎縮を招き、
狭窄化して、自らの首を絞めるという
二律背反の
選択でもあるのだ。


全生とは、かくも
難しい道行きを目標としているのである、、、、。








嘘のように圧痛が消し飛んで
しまった膝を、難なく使って
すでに宿場らしい雰囲気の道なりを
何事もなかったかのように、
歩き続け、、
その日の行程を無事
終える、、。

理屈でわかっている
つもりでも、これだけの激変を
体験するのは、
生きてあることの不思議さを
まじまじと実感できた、と云う
言い難い「余韻」を
心に残した、、。



その翌日からは、
今度は前日の筋肉痛に悩まされつつ、
永遠と続く感のある古道を
歩き続けたのであるが、、

そういえば、
巨岩の重なる風光明媚な
名所に足を延ばしたとき、
ほぼ全身の動作を使わない限り
進めない岩場で、
これまた筋肉痛がまったく
消し飛んで、
全身の筋肉が躍動したことも
実に爽快な体験であった、、、。





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2012年8月10日 (金)

其の18 隔てるものとしては近い!!



何日か前に、ある報道が
TVニュースで流された。

私は、ネットの動画ニュースで見たのだが、、


マッサージや整体による骨折被害、、注意を呼びかけ、、。
と云うものである。

国民生活センターが、
発表したところによると、
ここ5年間で、マッサージや整体、カイロプラクティックの施術による
被害相談が825件も寄せられており、
そのうち4割は整体、カイロなどの国家資格のいらない施術法に
よるもので、
骨折や神経損傷などの重度の被害ケースも
あるという、、、。


ネット記事では、その下欄に
コメントが数件寄せられており、
その多くは医療関係者によるものである。

リハビリ関係の療法士から、栄養士、医師。。?などの
面々が、それこそ鬼の首でも取ったように
批判的なコメントを寄せている。

彼らの主張は、
国家資格のないものは
本来、人の体に触ってはならない!のだ
と云うもので、、、
それみたことか!!と、
鼻息が荒い、、。



この10年で、
○○整体の看板を掲げる
治療院は急増した。

多くは、バブル崩壊から始まり、
世界同時不況の金融崩壊に至った
資本社会の危機が放った
国内景気への打撃に
打ち飛ばされてしまった人々が
なけなしの虎の子を
民間資格取得で、開業!!の
看板に吸い寄せられ、
脂汗のひねりのごとくに、
数か月か1年くらいで
多額の出資金を、吐き出さされ、開業した
人たちである。


「整体」は、一時
資格研修ビジネスに、
荒らされ放題であったのだ。


不思議なもので
ちょうど、同じ頃、、
こつこつと修養し、
手技徒手法の道を目指す人たちも
独立している。

誰が掛け声をあげたでもないのに
同時期に、
謎めいて集中したのである。


そのお蔭か
「整体」と云う業種は
目を見張るほどの
市民権を得た。


腰痛や肩こり、身体のリフレッシュに、と
人々の選択肢にのぼり、
日常的な何でもない会話にも
「整体」の二文字が
するっと顔を出してくるようになっていた。


けれど、その中身は
危ういものである。

身体(カラダ)と云うものは、
半年や1年で簡単に触れられるものでは
ないのである。

掴み方、挙げ方、着手の角度、
圧の度合いから、
お互いの体の向き合いの方向まで
すべてが深い意味を持って
お互いの身体に影響を及ぼす
気の抜けないコミュニケーションなのである。



身体のコミュニケーションは、
しかしどんなに、簡便な技法にしろ
人々を真摯にさせ、
身体そのものの奥深くに
心を振り向かせようとする。

そのため、
開店して閑古鳥であっても
何の得にも儲けにもならなくても
技術を磨こうとし、
具合の悪い人に奉仕しようとする
人たちが生まれる。

身体とは、
不思議なくらい求道に
誘い込む森なのである。



森には、分け入ろうとも
触れようともしない
一群の身体「スペシャリスト」の
人たちもいる。

入り方はそれぞれ、一ヵ所しか知らないし
だいいち、木々や鬱蒼とした草むらが
邪魔なので、、
切り倒し、引っぺがさないと
何も知りうるものでないと
考える一群の人々である、、。


そこで、とりあえず、
小型ジャイロ式探査機を
森の無線操作の届く範囲で
データ収集させ、
届いたデータを
PCのモニターで眺めやる
人たちである。


彼らも、経験と知識を積み重ねれば
身体コミュニケーションの
感覚と云うものを知らず知らずに
身につけ、
患者の顔色や様子からだけでも
ある程度、状態を掴めるようになる。



しかし、
回復期と云うものを
どう捉え、活かすべきかを
知恵として、知っている
医療技術者も有資格施術者も
少ない、、、。


否、、!!
身体全体を、見通せ
その深い森の深部も知る
技術がなければ、
まったくの当て推量となってしまう、、
そして、
それを体系化出来た手法も
限られるのである。


身体とは、
その深い森に小石を
ひとつ投げ入れれば、
必ずスポイっと
何らかの返事を
投げ返してくるものである。

深くても、浅くても、、、

実に興味深い答えを
それぞれに、
投げ返してくる
無尽蔵な、茫とした
虚なる森なのだ。


身体は
世界を隔てる森でありながら
すぐ真後ろで
お互いに、まったく
別の方法で検地しているほど、
ごく近い存在である伽藍でもある。


他者と自分を隔て、
自分と世界を隔てながら、
常に開いたコミュニケーションを
取り合う、
ごくごく近しい境界なのには
違いないのだ、、、、。








→ 季よみ通信 ~白山サイド






少し、追記が、、、。
本文との繋がりが悪いので
別ブログに載せました。

ご興味のある方は以下のブログに、、。

季よみあと帖





















2012年7月23日 (月)

其の16 急処が急処である理由



処(トコロ)、
整体における調律点。

急処は、急なる処であり、
その時期。時節に
急務なる調整点と云うことになる。

季節の肝点であり、
旬なるインターナルポイントである。



処と云うものは、
身体に無数に存在するとも言えるし
配列的であるといえなくもない、、、。

処は、位置をいうのでなく、
その表面の穴の感じや、
穴にあいてゆく感覚、
その底の、突き当たりの感覚を云うのである。


日本語に、トコロで、、、、。と云う
いままでの分節を区切り、話題をかえる言葉があるように、
ものの転換を図るポイントなのである。

整体に治療点は存在しない、、ともいえる。

ある程度、目的とするポイントを
効果的に刺激しうる「活点」と云うものは
あるが、これも広い意味で
転換を図り、変化を促す効率的なポイントなのである。

転換て、、どういうこと、、、?
と云うことになるのだろうが、
整体の身体観は、
常に変転し、動き、流れてゆくもの、
季節の移り変わるのと同じで
事象が変化し、移り変わってゆく
そういう実態として、捉えている。



身体は、ある方向性をもって
変化してゆく、、、。
その変化の流れが中途で
痞(ツカ)えてしまう、
その痞えを問題とするのである。

痞えは、ある系統的な
ラインで結ばれる反応点として
途絶えるので、
この最も急務なる焦点を見つけ出すのだ。


方向性とは、
要求の方向のことである。

身体の要求が
どちらに向いているのか、
今何に移り変らんとしているのかを、
感じ取らなければならない訳で、
その一つの目安となるのが
「体勢」なのである。



「体勢」は、
気の虚、実の転換によって
常に移り変ってゆく「傾向」の変遷である。


虚、実、とは何であるのか、、、、。

虚はウツロでもあり、退いてゆく感じでもあり、
弛んだ実態である。

実はコモった感じでもあり、押し出してくる実態でもあり、
張る、何ものかである。

虚の呼吸は、退いてゆく方向に力強さがあり、
実の呼吸は、張りや押し出し感に力がある。


これらが、虚実ともに同時に併存するのが
身体であり、心であり、
自然であり、動き、うごめく、
生きてある実態なのである。


体勢は、
虚と実の変転であり、
どちらが主としてけん引しているのか、
によって
体癖的な傾向を帯びている。



今季の焦点である急処に
ソケイ部を縦に横断するポイントが
存在する。

ソケイ部のやや下から
腸骨の突出し部分の下方までの
縦の10センチ強のラインをいう。
~詳細は、気法会HPに。

この急処は、季節の焦点であるので
やがて消える、、、。
一回限りの「処」なのである。




野口先生は、
子供たちとつかの間の休暇を過ごすさい
川辺に出かけたという、、。

川の流れに、
石を置いたり、移動させたりして
流れの方向を
さっと、変えてしまったという。

子供たちにとっては
とても新鮮で面白い遊びであったそうだ。



ひとつの置石によって
流れを一瞬にして、
転換させる、、。

このようなものとして
急処は存在し、
処は活かしうる。



身体は、四季12節を巡って
外気温や湿度、風の向きやら
空気の間合いなどに
適合するよう、
もっとも使いやすい系統の
働きを主軸にして
その変化をしのいでいる。


夏は、代謝系をフルに稼働させて
この湿度も日光も
過剰な世界を切り抜けようとする。

しかし代謝系である呼吸器も
泌尿器も主従入れ替わりながら
活動しながら、
うまく連携がとれなかったりすると
妙なところに渦が巻いたり、
流れが途絶えたヨドみが
生まれたりする。



今、足の裏を
そっと触れながら観察すると
ポっと熱を発散させているような
灯りが点いたような処が数か所ある。

ここに、しばらく手を当て
気を通していると、
下肢や腰部に反応する点が現れる。

呼応するように
温かさやビリビリした過敏痛や
ヒビく感じが
起こるのである。


この反応点が、よくよく
注意して観ると
ラインに結ばれているのである。

その時節、その体状況に
応じた途絶えと改革の可能性
双方を含んだラインを
形成するのである。


例えば、
左足裏の第1指、親指の根元から
第1ショ骨付近にかけ温点があるとする、
それから同じ左かかと内側にも
温点が生まれている、、、、
ここに、ジッと気を通すと
左ひざの下部あたりに
にわかに温かさが生まれる。

ほどなくして、
大腿部裏の側縁、
次に左腸骨の上部外縁あたりに
だるさを伴った鈍痛が起こる。

これは、泌尿器系に添われた
呼吸器系の疲労であり、
ツカエのラインである。


どれどれと、
もう一つの入り口も確かめる。

側腹である、、。
これも左、
ジッと気を通すと
腸骨上縁を尻側から前面に
温点が周ってゆく、、、、

こちらは、呼吸器系に
添われた泌尿器ライン。


ラインは、身体の状況によって変わる。
100の身体があれば、
100種のラインがある、ともいえる。
温点と呼んだポイントも
同じである。

しかし、ラインの中途、
いずれからか、枝葉のように
放射状に流れ込んでゆく
ラインより速度の異なった
流路が通っている。

これが、上からや
下からでも、いくつかの
ツカエのライン、反応点のラインから
流れ込んで、ある一ヶ処に
集約されているのである。

これが、季節の焦点と云える、
急処なのである。


ラインにあるようで、どのラインからも
遠く、そしてもっとも実態として
近い点、なのだ。




これらの行方を
虚実の分布から、眺めることも
出来る、、、。
否、そちらの方が判りやすいのもしれない。

虚実の分布は、
まさに体勢そのものの観察となる。



それは何か、と問われれば、、、

それは、またいずれの機会に
譲るとするのである、、、。









 季よみ通信 ~白山サイド















2012年7月 9日 (月)

其の14 とっ散らかし、打ち捨てたくなる開の季節



夏の身体は、開いている。

骨盤が開き、皮膚が弛み、
外気温の高さに合わせ、
身体の内と外の水と空気のやり取りを
しやすくしている。

この通信の
あちこち、そこここで話題としていることでもある。



人の身体と感受性の捉えかたに
体癖と云う観方がある。

野口整体の眼目のひとつだ。

体癖の世界へのツアーも
また、大変な長旅で
容易でない難所の連続なので
一片ばかりの通信では
掃き残した毛ほども
伝えられないものなので、
やがて、覚悟を決めて
旅支度にかからねばならないけれど、
今回は、案内パンフを
ちらっと開くぐらいにとどめよう。



骨盤が開く。
体癖の中に、常に骨盤が開く方向に
動きが向かう体癖がある。

文字通りの開型と言う。

開型10種体癖とは、
動きの中心が骨盤にあり、
その動きが開く方向にあるのである。

開くとは、受容すると云うことだろうか、、、

開型の中には、
見た目にもふくよかで、開いた身体を
持った人が少なからず、居る。

鷹揚な感じを受けるし、
何だか面倒見もいいので
誰でも、迎え入れてくれるように
思える。

門戸はいつも開かれているので
誰でも行き来が自由だ。、、と、感じる。

無縁のものを受け入れてくれ
中に入れば、世の一切のしがらみや関係に
かかわりなく、自由に
素のままで振る舞える、
そんな世界に思える。



開のイメージは、そんな具合で、かつて
「母性」であったり、
「和」であったり、「円」であったりした。



けれど、開の夏は
無性にささくれた心を、もたらす。

こまごましたことや、
日常の繰り返しのちまちましたことが
面倒で放り出したくなるのである。


暑くて、ムシャクシャするんじゃないですか?
と云うひとがいる。

けれど、暑かろうが
ムシャクシャする理由にはならない。

かー、暑いねぇ!!
と言って、波に乗ったり
冷たい麦酒を飲み干すことを
楽しみとする空想を
抱ける人もいるのである。

彼らは、決して
じとじとして、まとわりつく砂や
生臭く蒸せ返る潮の風だまりのような
浜を思い浮かべないし、
冷たい飲み物の一気飲みで
肩甲骨の中ほどの背骨に
きぃーんと、痛覚が走る嫌悪感など
心の片隅にも空想しない。



夏の集注は、不可能の極みだ。
どんなに快適な室内においても、
細やかな持続性を持った集注は難しい。

心身を奮い立たせて、注意の密度を亢めて
臨めば、出来なくはないが
頭に尋常でない緊張を残す事となる。

夏の密度の狭い物事に対する集注は
脳への過剰な緊張を強いるのである。
開き弛んだ骨盤では、容易に引き締められないために
肩代わりして、とりあえず
フル稼働するためで、後々の大変な疲労を残す。


一年中、ムラの無い生産性を保つため
快適な環境と設備、一定で差のない空間と云うものを
現代の工業化社会は、膨大な電力を
消費しながら、実現してきた。

そこで表面上は、負荷のかからない労働環境で
年中変わりなく、どんなに細密な神経の負担の大きい
労働でも、気苦労と機転を常に必要とされる
サービス業においても、この国では
ロングバケーションを取ることもなく、
休みなく稼働し続けてきた。

しかし、夏には合わぬ仕事があるのである。
冬には適わぬ生活と云うものがあるのだ。



骨盤の開きすぎは、
集注密度を欠き、日常の決まりごとを
きちきちと務めることが、
無性に面倒になる。

普段、片づけに精を出して
スカッとさわやかな笑顔を浮かべる人も
まったく根気が出てこない、
DMやメモも必ず、細かく割いて捨てていたのが
そのままゴミ箱に放り込みたくなる、
帰宅して、所定の位置にしまわれる鞄も
ドサンと部屋の真ん中に
無造作に投げられる、、、

これ以上ないくらい
だらしなく過ごしたくなるのである。


しかし、このような身体の要求に対し
現れる行動は、2パターンある。

豹変したかのように
要求にそってグシャグシャな生活を
するものと、
抗って、脳活動を刺激し、猛回転させて
このような、けしからん無放縦さを
徹底的に排除し、秩序を取り戻そうと
する行動である。



開型10種は、
誰かれなく迎え入れ、包み込むとき
受け入れられようとするものに、
無放縦に解放させる
不可思議な重力を強いてくる。

開型に中心点を持った
ランダムで自由自在な運動を
許容しつつ、、、、。


90年代後半を過ぎて、
2000年代に入り、
世の中に開型ではないのに
骨盤が、開き気味の
疑似開型っぽい人々が
増えてきた。

その人にしては、
妙に開いている、と云う身体である。

このような身体を
「こぶり10種」と名付けてみたが、
「こぶり10種」には、真正と
擬正の二種あり、
本来の開型でない
時代的な疑似開傾向は、
擬正こぶり10種である。

擬正こぶり10種は、
包容的でないのに
無造作で無関心であり、
妙にとがった情報力を持った
脳活動をみせ、
しかし、大勢に従順なのである。



女性が、生理前
骨盤が開きはじめる頃に
にわかに、パートナーである
異性をわずらわしく感じ、
その一挙一動に腹立たしくなるのは、
この世界に対となるべき
一種類しかいない
対象的な人間の、
合目的な行動パターンや
無駄をしない合理的な思考方向に
我慢がならなくなるからであり、
開型の身体の要求を
抑えきれなくなるためである。

どんなに好意をもっていようが、
一番身近にいて欲しいと
常に思っていても、
最高に嫌気がさしてしまうのである。




夏の午後、
人は昼寝をする。

あるいは、夕方
ほてった身体と頭を
休めるように
底なしの休息を
一時、取るのである。

夜半の眠りより、
よほど深く、よほど安らかに
眠りに落ちる、、、、。


夏には、このような
休息が適っており、
必要だ。



けだるさを残した夕刻に
ほんの一時だけ訪れる
内省の時間、、、
やっと自分の領域に戻ったような
心を取り戻したような
穏やかな時間だ。



夏には、
バーバーやマーラーの歌曲が合う。

ノックスヴィル、
バーバーの「ノックスヴィル 1915年の夏」、、、

ベタベタと額や頬に張りついた前髪が、
まだ暮れ残る日差しの中を
くぐり抜け、吹き抜けて来る風に
さわさわと乾かされる
休息の一時、、、。

この一ぷくの涼風のような音楽に吹かれながら
ぼんやりと仄暗い中に沈み込むように眠るとしよう、、。

洞のようにポカンと口を開けながら、、、、、。







 季よみ通信 ~白山サイド



















2012年6月25日 (月)

其の12 自分は生きるものか、死ぬものか、、、、




整体生活と云うものがある。

野口整体の世界に一歩、足を踏み入れれば
おおかた誰しもが、その身体観を生活化してみようと
引き込まれるように歩を進め始める、、、。

整体的な身体観を習慣として実践することで、
整体的な自律した生活を送る、と云うものである。



いわば、「自主管理な身体」と云うものを
めざしている。


生きている当人である、本人が
自分の身体の主となって
生き抜いてゆくと云うのは、
ごく、当たり前のことであるし、
逆に逃れようのないものでもある。

自分の身体が嫌であっても
自分の性格がおぞましかろうが、
逃れられないから、
人は、のたうちまわるのであるから、、。


けれど、
自分自身の身体に何が起こっているのか、
今、自分の身体の中の何が動き出し、
何が停滞して何が困難をなしているのか、
明確に自覚化している人は少ない、
いやほぼ、世の中には存在しない、、、。



整体生活の究極の目的と云うものは、
自分は生きるものか、死ぬものか、、、
どちらなのかと云うコトが、
その時、その場で感覚出来ると云うコトに尽きるとも、言える。

人は、
自分がやがて死に向かいつつあると云うコトは
何となく判っていても、
一体、いつ死ぬのであろうか、、、と云うコトは
判らないのである。


いや、これは、
理由のあることで、、
実際、33年後に自分の寿命は尽きるのだと
そんな先のプログラムを本人が判っていることの、意味は
あまりない、と言える。

身体にとっては、
いつ頃まで、無目的な消耗活動を続け、
いつから養いとなる精神活動を引き起こすアクションを
仕掛けるかとか、
どの時点で、人生を折りたたむ準備を始めるかと
云うような事を、計画するには
必須の情報であるので、
逆に、身体においてはこれはすでに自明のことなのである。



その時、その場で、
必要な時期に、あぶり出しのように
意識の水面に、ふっと
浮かび上がればよいのである。

ああ、自分の人生は
もう終わりなんだな、、、、と。


本来、それが難題であったわけではない。
死の自覚化と云うのは、生き物にとって
当たり前のことであり、
まさに粛々と執り行なわれる
最後の工程なのであるから、
何をいまさらと、、きっと
他種の生き物たちは思っていることだろう。


しかし、人は
死を不安がり、怖れる。

身体は、その時に至れば、実に潔いものだが、、
意識の総体である「自分」と云うものは
いまある自分が、何処に向かっているのか
皆目、判らないために
何十年も先のことを、不安がり
焦り、もだえている。


自主管理な身体、と云うものは
これを、ふっと気付けるよう
意識の一部を身体化しておくことである。

いや、そのすべてを
感じ取り、次にどう動くのが良いのか、
すべてが判ってしまうなどと、云うコトは
さすがに尋常ではない。
ありえないことである。

ただ、
半歩先、一歩先の
進む路がふっと判断できるのだ。

まだ大丈夫だ、
自分は生きようとしている、、、、。



とりあえず、客観的に
判断する方法はあるのだろうか、、
「自主管理な身体」の初歩の段階で
修めておくべき身体の診断法がある。

脈を観る、
お腹の弾力を観る、、
この二点がある。

両方とも
普段の自分の平常時の様相を
把握していなければならないから、
観察を余念なく行なっていないと
異常時に、それに気づけない。


脈は一息四脈が平常である、
呼吸1回に脈を4つ打つ。

体熱が上がったり、
身体が急激な変動への対応と復元を図っているとき、
脈は早まる。
一息四脈を破ることになるのだが、
四脈より多く数を打つのであるなら
あまり用心は要らない。

逆に四脈を割る、少なくて非常に遅く力弱い脈は
警戒する。

頭を非常に強く打ったり、
身体の内部に強く衝撃を受けたような場合の、
このような脈は、
本当の意味で安静が必要となるし、
救急対応の現代医療にお世話にならなければならない
時もある。


さらに
何テンポか飛んだり、打つ強さが一定でなく、
きれ切れで不安定な不整の脈は
最大の注意が必要である。


脈の乱れ、異常は
身体の羅針盤となりうる貴重な情報源なのだ。

首筋の二点と手首の一点の脈の合致で
身体のすぐ行く末を占ってみる、と云うのも
よく知られた整体的な脈による身体知である。



お腹の弾力とは、
言葉通り、「弾力」と云うもののことで
呼吸に合わせて、盛り上がり、へこみ、
また盛り上がり、する
お腹の張力のことである。

お腹の潮力、と言い表してもよい、、、。

潮が満ち、退くように
身体の波によって、その力感は移り変わる。

満ちるほうに力強い時もあれば、
退(ヒ)くほうに力を感じる時もある。


満ちるも退くも、いずれの時にも
変わらず感じられる、しなやかな水の束が
奥にうねっている。

お腹の呼吸の山なりに手を乗せ
その呼吸の拡縮についてゆくようにしていると
このうねりを、感じられる。

ためしに、吐き切った底で
やや押圧をかけてみると、
しぼみきらない、この水の束の弾力を
感じ取ることが出来る。


このしなやかな弾力があるうちは、
どんなに変動が激しかろうと
心配はない、、
にぎやかに症状が打ちあがっていようと
まったく不安はないのである、、、。

この弾力がぼやけ、
ふにゃっと力を失った時、少々
用心が必要となる。


あるいは、いつのまにか、
ぎゅっと硬く小山のように結ばれた縦長の
帯のような、押さえても、圧しても
凹まず、沈まぬ硬直の束が
生まれていたら、、
心理的なものや、緊張状態に強いられた
休まらない頭による
内臓への負荷を疑うべきであり、

いよいよ、
力弱く、弛緩して盛り上がることもなく
ヘニャっと凹みきってしまったいたなら、
回復に相当の時間と注意が必要である事を
覚悟しなければならない。


お腹と云うものは、実に面白く、、、
さまざまなコトを教えてくれる
情報ステーションなのである。

弾力のみでなく、
気的な温かさや、呼吸の部分的な入り具合からも
その偏在によって、
どこに、どのように偏って気の集注が
在るかによって、実にさまざまな体状況を
読み取れるのだ。


けれど、ある程度
観察が出来るようになると、
今度はその色合いがころころ変わるごとに
一喜一憂が、始まる。
これはあの、、これこれの症状の、、、、兆候を
示しているのではないか、、、、!?

観察法に習熟しても
気の休まる時がなくなったりする、、、。

つまるところ、
観察は、やがては判断法ではなく
確認の術とならなくてはならないのである。


観察に長けてくると、
勢いが、観えてくる、、。
勢いが、隆盛なのか衰微なのか、、
波が満ちてくるのか、退いてゆくのか、、、、

気における「勢い」が見え初めて
やっと、入り口に立てた
ともいえる。

慣れてくると、自分の身体のみでなく
他者の身体も観えてくる。
今、起こっている変動、症状は
さらに暴慢するものなのか、
いやこれで、おとなしく収束されてゆく、、
と云うことが観えはじめる、、。


部分的なステージごとの変動の
盛衰、つまりは
「生」の方向に向かっているのか
「死」の方向に退いてゆくのかが
判ってくるのである。



整体生活と云うものは、
このような身体や季節や自然や
人生や世界や、
木やら草やら、生きものの表情から、、
勢いを、感じ取れるような
生活なのである。

何となく、いつのまにか
その勢いだけがコンパスに
生きてゆく事に
なるのである、、、。






梅雨は、古い故障や溜めこんだ疲労が
浮き上がってくる季節である。

鈍りと停滞の季節のような
体感であるけれど、
この時期こそ、一皮、古い皮を脱いで
脱皮できる好機にもなる、、。

何をどう、感じ取るかにかかっており、
感じ取った分だけ、やがて変わってゆく、、、。
感覚ではなく、
それが何処に向かってゆくのか、
どう云う空想に結びつくかに、
関わっているのである、、、、。





→ 季よみ通信 ~白山サイド




















2012年6月11日 (月)

其の10 和風はカラダいっぱいに吹く、、



日本には、四季がある。

気温も湿度も、ぐんぐんやら、うねうねやら、しながら
季節の流れにつき添いながら、
寄せたり引いたりして、暑さや寒さの色をかもす。

風や光の量も、
音や水の近さも、季節の動きそのものとして
動き続ける。

変化してやまない世界にいて
何事も起こらない安定を望むのは
失礼千万な事なのかもしれない、、、。


しかし、人は安寧と平安を望む。



「養生」と云うものは、
20世紀後半にいたっては、
「衛生」と云うものに、
とって変わられてしまったけど、

変転してやまない自然の動きと、
身体の変化と、、、
変幻し換わり続ける
身体と世界の一つながりの「体気象」
とも云うべきものに、
いかに対応し、これに一本の芯となるものを
打ち込んでおくべきかを、
自在に巧妙に、半歩先に
手を打っておく方法論なのであった。


「養生」と云う、季節とともに
生活する方法論を、失ってしまった現在、
季節を読んで、対応しましょうと云う提案は
一般的には、感覚として
判りにくいコトになってしまっているのかもしれない、、、。




野口整体には、風に対する養生法と云うものがある。

四季に応じて、
身体に吹き付けられる風の方向を
論じている養生法である。

四季の身体においては、
湿度、汗と乾きと云うものが
大変重要なファクターとなっている。

汗がどのように、風に吹き付けられ
乾くのか、、
乾燥した時期に、凍えた風が
いかにカラダを脅かすのか、、、
その、吹き付ける、吹き抜ける、
方向の、何に注意すればよいのかを
養生として説いている。



夏は、身体全体が放熱しようと
世界に向けて、開いている。

汗をかき、気化させることで
熱を奪われて、放熱している、、

たっぷり汗をかいた後に
木陰で、そよそよした風に
吹かれるのが心地良いのは
理にかなっているのだ。

この心地よさは、
身体の前面に受けるのが
なおさら心地良い、、。

胸から額から
暑気が吹きとられ、
熱が発散してゆくのが
ことさら、なのである。


夏は、身体の前面に
風を受けるのが養生である。

逆に、知らぬあい間に
背面から風をうけて、
首筋やら、腰やらにかいた汗を
冷やされてしまうコトが
身体を危うくする端緒となる。

知らぬ間と云うのは、
眠っていたり、であるとか
外気温からすれば、異常事態である
エアコンの冷気を
ワゴンセール品に気を取られている隙に
首筋にかいた汗に吹きつけられて
冷やされたりする場合である。


夏は、呼吸器が旺盛にはたらき
胸が開き、身体前面から
どかどか放熱してゆくのが
健康的な生活と云うものなのだ、、



冬は、反対に
北から吹いてくる風を
背中で受ける、、
ごうごうと吹き付ける突風に
背中を押されながら、
吹き飛ばされるのが、
とんでもなく心地良いのは
この理のためである。



湿度も気温も上がる夏季の
過ごし方と云うのは、
汗の処理を、いかにするかと云うのが
養生である。

汗をいかにかくか、
汗を冷やさないかと云うのが、
最重要課題なのである。




「冷え」と云うものには、
入り口がある。

東洋の古典でもある
傷寒論は、この「冷え」と云うものが
どのような経路で身体に入り込んだのか、
それによりどのような「傷寒」を
身体に及ぼしているのかを
緻密に詳細に論じたものであるが、
確かに、「冷え」は、
何処からでも、冷えるモノではないのである。


汗をかき、
風にさらされ、
冷やされる事で
「冷え」てしまう、、、
これは、夏季の基本的な
「冷え」の形態である。

けれど、
半裸に近い状態で、
その辺にごろ寝しても、
何でもない人たちは、何故?
「冷え」ないの、、、。
と、疑問に思う人たちがいる。

確かに、
湿度がちょっと、上がっただけで
いちはやくTシャツ一枚にハーフパンツに
裸足に草履、と
平気で空調のぎんぎん、効いた
鉄筋鉄骨コンクリート造の商業施設に
入ってきたりする人たちがいる。


どうなっているのだ、、、、と。


梅雨の初期であるこの時期、
「冷え」の入り口は
下肢にあり、
膝下のスネにある。

膝頭の下部のすぐ下の
足三里と呼ばれるあたりの向こう脛の外側のクボミと
その反対側の内側のクボミに横断する
水平のラインの口と、
もう一箇処は足首の、外踝クルブシの上のクボミと
その反対側の内踝クルブシの上のクボミに横断する
水平のラインの入り口である。


「冷え」の入り口は、ココには違いないのであるが、
どんな場合にも、入り口になっているのかと云うと
そうでもない、、。

ありゃりゃりゃ、、、どうなっているのだ、、、、と、、。



ためしに
アキレス腱を伸ばすように
つま先を立ててみる、
足首がくの字に曲がるように
足の裏側を伸ばすのである。

すると、前面のスネのあたりに
急激に吸い込んでいる感覚が
生まれる、、、

逆にアキレス腱を縮ませ、
足先をスネと水平に、
向こう脛スネを伸ばすようにすると、
この前面のスネからは、
何かもやもや、発散する感覚がある、、。

この「吸い込み」と「発散」という感覚は、
「体気象」と云うものを
感じ取る上で、実に大事な
体感覚なのである。

これは、自分の身体の実感としても
他者の身体の観相としても
感覚できる気のモニター法である。


意識的に
アキレス腱を伸ばしている訳ではないのに
常に、アキレス腱が張り詰めて緊張状態で
ある人たちは、
この「冷え」の入り口が、
開いている。

吸い込みの気の流れの体勢を
常に取っているのであるから、
冷えは、入り込みやすい。

逆に、アキレス腱は弛み
適度に関節が開いている人たちは
ハーフパンツだろうが短パンだろうが
涼しげなオープンな衣服をまとっても
冷える事は無い、、、
外気に直にさらされた肌からは
ぐんぐん放熱されるのである。


アキレス腱周辺の緊張が抜けない身体は
腰椎1番の椎側も、常に抜けない硬張りを
作っている。

「冷え」が入り込むと、
この硬直したラインが
胸椎11、12番と云う、腰椎のすぐ上の
椎骨のワキの椎側に
上がってゆく、、、。

腰椎1番がこの時、
下がって真下の2番に
くっ付いてしまうと、
胸椎11、12に上がったラインは
椎側の三側と云う処に
入り込み、腹痛を起こし始める。
急激に下したりするのである、、、

逆に、ラインが
一側に入り込むこともある、
腰椎1番が上がったまま飛び出し、
胸椎12番にくっ付いてしまっている場合である。
この場合は、
さらに胸椎の上の方、上胸部に絡んでくるので
また別の冷えの様相を呈する。
「冷え」は、このラインを
昇りながら、肝臓に入り込むこともあるし、
一気に上がって、胸椎1、2番を硬張らせて
肩や腕、首の筋や腱を硬直化して
動きを阻害したりする。



さて、「冷え」の入り口が
開いていないのに、
「冷え」の問題を抱えている身体もある。

これは、
足首などの関節が開きすぎている身体である。

この人たちは、
非常に肌の感覚が鈍い状態に陥っていて
汗をかけない、、!

ゴムのように粘りついた厚い肌をしていて
汗をかけないために
大変に暑がりである、
半裸に近い格好をしていても
涼しげな感じがしないし、
空調をキンキンに、効かせたがる人たちである。

この人たちの「冷え」は、
皮膚や泌尿器系にあらわれる、、、
厳密に言えば、「冷え」そのものではなく、
「汗の内攻」なのであるけれど、
かけない汗のための変動を起こすのである。

この人たちにも、
「冷え」が、入り込むことがある、
別の入り口が開けられたのである、
この場合、冷やされて「冷え」たというより
内攻した汗が冷えを、呼び込んだと云う
感じに近い、、、。

このような冷えは、
血行の問題となる、、
循環器やら血管の変動を起こしやすいのである。


腰椎3番が捻れながら、腰椎4番の力が抜け
引っ込んでいる、、
1番は上がったまま硬張り、椎側に弛んだ一点が
生まれている、、。

汗は、冷えて内攻もするが
かけないことで、内攻もするのだ、
かけない内攻は、つらい、、
泌尿器がフル稼働しても追いつけない、、




身体は、
季節に動いている、、

各々の身体の特徴と癖に応じて
急処となるべき点とラインをつくりながら、
鈍りもするし、活発に活動的であったりもする、、

この時、どのような身体にも
適う、ピッタリとした解決の糸口である
季節の急処と、云うべきものが
発現する。


どういう原理で、このポイントが生まれるのだろう、、、。


整体には、活点と云う
調整点が、身体のあちこちに存在するが、
この活点も、
いつでも、開いているわけではない、、、
見つからない時さえ、あるわけで
これも、入り口が開くように
持ってゆかなければならないのである、
開く必要を、身体に呼びかけないと
いけないのである。



季節の急処は、
この呼びかけ口を
身体そのものが、気象を先取って
用意したものなのだろうか、、、、、。

急処が何故、生まれるのか、、
どうして動くのか、を
究明するのは、また次の機会に、
と云うことになる、、、、、、。








、、、、あゝ

南からまた西南から
和風は河谷いっぱいに吹いて
汗にまみれたシャツも乾けば
熱した額やまぶたも冷える、、、、、、。








さて、
白山治療院の指田さんの、的確で詳細な解説のおかげで
私のつたない言葉足らずの文が、毎回見事に完成されている。

うーん、私が脱帽なのである、、、。




→ 季よみ通信 ~白山サイド











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2012年5月29日 (火)

其の8 自然の変異と身体

~ ※この記事は、公開2日目にさらに追記されています。~




この10年、梅雨は空梅雨続きだった。
梅雨であるのに、カラッとした日が続いていた。


やっとこの2~3年、湿度をともなう梅雨が戻りつつある、
動けば、ジトッと汗ばむ梅雨である。
日常動作や、歩くだけでも汗かく梅雨、
今は、梅雨前期と云える季節である。


この空梅雨であった何年かは、
身体にとっては、非常につらい時期であったといえる、
一般的には、カラッとしているので
過ごしやすい!!と、歓迎されていたが、
身体にとっては、苦行のような日々であった、、、、、。

4月から5月にかけて、日差しは急速に
強さを増し、じりじり容赦なく照り付けてくる。

この日差しと気温上昇に本来、湿度は
不可欠なのである。



よく知られているように
日差しの中の紫外線は、
皮膚に吸収されて、身体の中にビタミンDをつくる。

ビタミンDは、体内においてカルシウムの吸収を促し、
身体の中のカルシウムを定着させる働きをする、

免疫機能を活性化させ、
筋肉や神経系統にも影響するビタミンDは
紫外線のエネルギーを利用して
長い年月をかけて、人の身体が
獲得した体内育成物なのである。


かつては、紫外線ともども
日差しは敵ではなく、日光浴!と称して
皆、こぞって太陽の光を積極的に浴びようとしていたのである、
じりじり、肌を焼き、だらだらと、汗をかいて、、、。



しかし、近年
オゾン層の破壊にともなって、
紫外線内の有害物質も体表に届き、影響を
及ぼすにいたって、紫外線は一気に「悪役」に
成り代わってしまった。




2007年頃の、気法会のホームページを観ると
骨のマッサージ行気と云うものを
紹介している。

2007年は、すでに空梅雨となって
数年を経た頃である。

この年、今まで
空想にさえ起こらなかった
骨への直接の愉気、あるいは行気、
気を集める、と云う事を知らぬ間に
行なっていた。

とくに胸郭、、、
硬張った肋間筋、胸骨、、
何をしようにも弛まず、
さて、どうしたものかと、思っている先から
思わず骨そのものに
気を通していた。


当時は、明確な理由が
思い浮かばなかったが、
骨そのものをマッサージするように
行気してみると云うような
方法を提案した。

気を通すと、
胸の中に籠もった熱が
ふううと、発散されていった。


空梅雨で
じりじり焼かれるような
日差しは、皮膚を突きぬけ
骨に直接、影響を及ぼし始めていたのだろう、、、

ここら以降から
熱中症と云う、陽射しと暑さに
ダウンした身体が増え始め、
注意喚起の声が大きくなるごとに
倒れる人もまた、
急激に増加した。

人々の空想に
認知されたためである。




日本の梅雨は、
汗ばむように動かねばならない。
いや、汗ばむどころか
どかどか汗をかくのである。

梅雨前期は
動けば、汗ばむ。

このように
胸椎10番が動き、
胸椎5番が盛んに働いて
汗をかくことが
夏の前の養生なのである。


しかし、
胸椎5番は硬張り、
胸椎3番に痞えが生まれ、
肺の動きが阻害されてくる、、、

免疫系等の胸椎7番も
怪しげな途絶えを呈して、、
強力な陽射しに、身体は
大きなダメージを受けていた。




インドネシアに出向していたSさんが
3ヵ月ぶりに戻ってきた。

当初、1ヶ月は気候と食べ物の違いに
体調をやや、崩していたが
その後、2ヶ月いったきりの
久しぶりの彼の身体は、
現地人のごとく、黒々と日焼けし、
すっかり適応していた。

彼はサーファーでもあるので、
仕事の合間に、現地の海で
波に乗っていたらしい、、、。

陽射しが、こっちとは
異質なものらしくて、
半端ない照り付けに、
焼け焦げたようだと言う、、、。

確かに、日焼けした
肌の黒さが、日本人のものではない、、
黒々と芯から焼けているような
骨格のある黒さ!!とも云うべき
日焼けである。


しかし、面白い事に
彼の身体は、
とても水っぽい感じがした。

皮膚の下が
水を含んだ房のような感じなのである、
この事を話すと、
何でしょうね、、、、と、不可思議そうな
顔をしていた、、。





多少、戻りつつあるとはいえ
梅雨前期の今、
湿度感は、まだまだ、、である。
かつての、梅雨は
簡単には戻りそうに無い。

熱い風呂に浸かったり、
皮膚への刺激が
効果的なのは、
この変異してしまった
自然に身体を適わせる
自己保存としての防衛法だからである。



有害であると云う紫外線も
波長の長さにおいては有益だと言う、
細胞を活性化するのである。
メラニンを作り出し、日焼けする事で
身体も適応を図る、、

いずれも度合いの問題なのだ、
長く浴びれば
毒となる、

シミの原因となると喧伝されて
人は、太陽を
忌み嫌い始めたが、
何十年に一度とか、
リングの神秘とか言われれば、
こぞって日の光を
仰ぎ見ようとするのである。




身体は、
つねに自然の運航に
付き従っている、、、、。

人が作り出した
奇妙な自然の模造品の社会に
人は、足枷として捉えられながら
なお、
季節の変転に応えながら、
変異する自然に
今ある能力でもって最大の最適化を
ねらって、粉骨努力するのである。




一番の問題は
身体の持ち主の意識が、
この事にまったく、無関心か
鈍感である、という点なのである、、、、。






→ 季よみ通信 ~白山サイド











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