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2012年12月

2012年12月24日 (月)

其の24 と、思い込んだ、その先





「病気」は治るが、「病人」は治しがたい
と、名言がある。


「病気」は、治すというより
治ってしまうというものであるし、
生きる方向にベクトルが向いている限り
修復され、復元される。

医療のやっているコトは
治るものだ、という前提で
その施術法の構造が出来上がっている。

医者は、往々にして
感違いをするが、
他力の施法は、ごくごく限定的にしか
手助け出来てはいないのである。


「病気」は、治ってゆく、、、

どのような見当違いの施法を
受けたとしても、それを何らかの手がかりに
「良い方向」へと転換してゆく、、

「生きる方向」にベクトルを、、
羅針盤を調整するのである。


治療とは、本来身体力による治癒を
少々手助けしながら、
その変動に込められた身体の意志、とも
いうべき要求を読み取り、
本人の随意能力ともいえる、意識的な体力にも
その道筋を示すことなのである。

実は、このとき
この意識的な体力が
反発するケースがある、、、。




「病人」は何故。生まれるのか、、?
病んだ人々は何故、
頑固で融通の利かない硬張った心に変化してしまうのか、、


「病気」でなくとも、現代では
病んだ社会が、傲慢で狡猾な硬張った心を
持った人々を
多量に発生させているが、、。

なぜ、障害だらけで
真っ直ぐに自分の能力を発現させるに
妨げとなる状態を、状況を
改善することに、背こうとする
この反発が、心の中にはあるのだろう、、。




人の心は、
「と、思うように、、、」に、
向かっている。

理由は、はっきりしなくとも
「と、何となく思われる、、」
と云う方向に進んでしまうのである。

「と、思う、、」と云う漠たる空想は
なぜ、生まれたか本人にも分からないまま、
ふくらみ、根付き、、
知らぬ間に確信めいて
心の真ん中に建立されている、、。



脳科学者のアントニオ・ダマシオは
人の意識行動は、
as if」によって、振る舞われていると
指摘している。

as if」…あたかも、、であるかのように、、
振る舞いながら、
やがて、まさに、そうであるかのように、、
行動し、
と、思われる、、ことに沿って、
物事を振り分け、体系化してゆくのである。


このダマシオの「as if」
森鴎外の作品「かのように」に結び付けて
私の叔父さんが、自前のHPでエッセイを
連載している、、。

鴎外を持ち出すところが、叔父さんのセンスの良さを
感じさせるが、
「かのように」で鴎外は、人の模倣による“成りすまし”の
利点を意見しているように思える。

鴎外の時代の明治においては“成りすまし”とは、
異世界の文化を理解し、吸収するための
方便であった。

ある種、日本人の新らし物好きの血が
猛進させたところもあったであろうが、
模倣による学習は、初期の体得法であると
今では、広く知られ認知されてもいる、、。


模倣は恥、と感じる向きもあって
当時から相当の軋轢があったのだろう、、
それもひとつの見識ではあるが、
洪水のごとく流入する欧米の文化や様式に
抗って、“純”日本とも云うべきものを模索する
一群の勢力も台頭してきた中で、
模倣そのものをあるがまま、認めて
その価値を見出そうとした鴎外の「かのように」は、
非常に興味深いのである。


                ※叔父さんのブログ
                「脳の地図とかのように  NO101~106…」


ダマシオの「as if」ループは、
その根拠たる出処が明確でない気がするが、
「かのごとく」によって、
空想と行動が結びつけられているコトは、
人の感受性の動きを、つぶさに観察してゆけば
自ずから得られる回答なのである。




人が、不安定きわまりない自己を
「自分」として、存在させるには
自分を、このようなものとして、
規定しなければならないし、
そのようなものとして、成りきることで
自己が自我から“浮き彫り”されてくる、、。


「自己」が、「のようなもの」として
規定されると、にわかに
「ではないもの」の反力が生まれる。

「のようなもの」の中には、無意識のコンプレックスが
繋ぎ糸のように織り込まれているからである。

「ではないもの」への反力とは、
憧憬であり、願望でもあるので、
永遠にたどり着けない夢ともなり得るし、
実現しうるかぎりの夢とも成る。

けれど、そこにはある種、忍耐力が
必要なのだ。
許容力と忍耐力を養おうとしないかぎり、
「ではないもの」を、お手軽に
「自己」の外側からかき集めてくる
人々がいる、、

それは、装飾であり、化粧であり、
はがれやすい「自己」への張りぼて、なのである。

「余分」なそれは、
過剰さを呼び込み、習慣性を帯びて、
あまりに厚塗りのため
やがて「自己」がどこにあったのか
自分の姿が何だったのかさえ
見失うことになる、、。


病人の抜けだせない、、
脱ぐことのできない「依存」という飾りが
コレである。



「のごとく、思う」や「のようなもの」は
身体が、感覚した信号を
どのように脳にマーキングされたかによるのだが、、
野口整体では、おおむね
このあたりの構造を、椎側の連関(ループ)に
現れると指摘されている。

たとえば、内臓の異常は
三側(椎側の三つ分くらい外)や二側に変異を
呈するけれど、これらは、
内臓そのもの筋や神経の動きを
つかさどる自律神経系の停滞や失調を
如実に表わすものであるが、
それこそ、「か、のような」の無意識の空想に
関わる問題が絡み始めると、
とたん、一側(指一つ分外)の硬張りに
変異する。

一側は、頭の中にある汚滓である余分な彩飾の
裏にある「不安」「嫌悪」そのものを
ダイレクトに表現しているのである。


「かのごとく」も「かくあるように」も
「そのようなもの」も、すべて
不安でありながら、憧憬であり
嫌悪でありながら、希求である
実態のない靄のような実感、を
私たち、自己が
いかに使いこなすかを、試して
やまないのである、
実にその生を閉じるまで、、、、。


無意識と身体、
意識と無意識、、
身体と意識、
これらの関係は、絡み合いと表裏、
主導と突出、と
なかなかに多彩な綾なので、
また、何度か機会に応じて
論じてみたいと思う。


今宵はここまで、、、、









季よみ通信 ~白山サイド






続きの頁に、クリスマスの物語を
添付しました。
いっぷくの紅茶にでもどうぞ、、
     ↓

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