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2012年10月18日 (木)

其の22 無意識の連絡通路




通信の其の21で、
指田さんから、バトンを渡された格好であるが、
私に何か特別な回答があるわけでもない、。


けれど、身体運動の術化においては
意識と無意識の配分というか、
無意識の連絡が、肝心要の“カギ”とは、なるのだ、、、。



一般には、意識と無意識の
関係は、主と従と考えられている。

意識が主体であり、、
無意識は、意識につき従いながら
これを補完し、意識の目的を貫徹する、
あるいは、
意識の澱オリでもある、心的なストレス群の
貯蔵庫として、まるで吹き溜まりのような
悪露の沈む漆黒の瓶カメのようなものとして
あると、捉えられている、、。



無意識の本当の役割が、何であるのか
判らなくても、無意識の巧妙な
手配は、微に入り細に渡っている。



私たちが、ひとつの型や決まり事を
覚えてゆく過程と云うものは
どのような順路をたどるのだろう、


たまたま、伺った
新聞配達員の方と、ギター教室の先生の
人がものを覚える道筋のお話しが全く同じ
言葉であったのに驚いたことがある、、。


配達経路の道順も、
複雑なコード進行理論も
最初こそ、
夜道を、消えかかりそうな提灯一個で
暗黒の中を及び腰で進むようなもので、、、
複雑怪奇な世界に紛れ込んだような、
不安と途方の暮れようで、
先のことなど、考えもおぼつかず
目前のことしか視野に入らない訳なのであるが、、

けれどある時、、、
何度も何度も同じ道、同じ練習を繰り返しながら
なお暗中のなかであったのが、
まさにある日、、
全く突然に、視界が開け、
すぽああ、と俄かに頭の中に順路と道筋が
最初から最後まで、いっぺんに
イメージでつながり、描けるように
なるのだと、いうのである。


確かに、仕事と云うものを
覚えると云うのは、
ある時から、次に進む手順が
ぱああ、とイメージで描けるようになることである、


これは、脳内の神経細胞間でシナプスが
盛んに道筋を探しながら、
ある時、一瞬の連続発火でニューロン間を
電気信号が疾走したのであろうが、
意識からの断続的な、刺激に
無意識が実に丹念に連絡路を準備した
結果といえるのである。


何らかの形で
誰もが、一度は経験していることなのである。


このような、閃きであるとか
判った!!と云う瞬間であるとか、、
何か降りてきたー!とか、
これら一切が、意識~「自分」にとっては
圧倒的な覚醒感覚を持つので、
何か特別な回路が開けてしまい、
すばらしい未来が待っているかのような
感覚に惑うのであるが、、、




私たちの日常動作と云うものは、
7~8割は無意運動である。

一挙手一投足を細かく、意識しながら
動いているわけではない。

ある動作に伴う意識的な形式は、
何度も繰り返すことによって
習慣的な無意動作におりてゆく、。


何も、いちいち意識化しなくても
目的だけ明確であれば、
知らぬ間に、身体が動いていて
ちゃんと、正確に作業しているのである。

意識的な形式が、
無意識化されたと云うことであるが、
このような身体にくっ付いた無意識の動作と云うものは
状況が変わって、新しい形式になっても
つい、知らぬうちにやってしまっていて、
習慣的な無意動作の正確さと危険を
ハタと知るわけである。


指田さんが指摘されているように、
活元運動などによる無意運動系の訓練を積むことで、
この無意識化の流れと
意識的変換が実にスムーズに
必要に応じて、サッと表現されるように
なる訳である。



これらのことは、
逆に言えば、無意動作化されない
型や形式と云うものは、
まさに、使い物にならない、、
と云うことなのであり、
過剰すぎる意識の反復は
無意識化をさまたげるモノにもなる。



意識と云うものは、
明滅する瞬間の「目覚め」に過ぎない、ともいえる。
一瞬いっしゅん消えて無くなるものの
残像をつないで、「自分」がつながってあるように
思っているだけなのである。

ちょうど、TVの映像がそうであるように
一コマ一コマの画像が、明滅してコマ送りされると
目の中の残像が、あたかも繋がって動いているかのように
錯覚させるのである。

「私」と云うものは、さように不確かなものなのだ。

それを、つなぎとめ、一連の連続した「私」に
錯覚させるものが、無意識であり
身体に密接に連携、反応する無意運動系と
云うものなのである。


このため、意識と無意識の双方の関係は
そこに微妙な按配が、必要であり、
それが重要なミソとなるのである。

過剰な意識の反復は、
無意識化に降り立つのを妨げて
脳内の関連部位への連絡を
途絶えさせてしまう。


形式や「型」と云うものを覚えるには
ちょこちょこ、チコチョコと無意識の連絡通路に
引き渡しながら、次々忘れてゆくつもりでないと
「型」にならないのである。

あらゆる記憶は、動作と五官の感覚を同時に伴うことで
確実に仕舞いこまれてゆくものなのだ。



この意識と無意識が往き交いする
微妙な按配を可能にするには、
繰り返しになるけれど、
無意運動系の鍛錬を経なければ、
なかなかスイっとはいかない、、。

最も近道で、感覚的である
活元運動をよく訓練されることがまず、第1歩である。
と、いえるのである。



さて、あらゆる動作を丹田で動く、とは
どのようなことかと、云うことであるけれど、、、

丹田で動くとは、足裏で動くということになる。

全ての動作において、
足裏を捌くことで、動きを図ってゆくのである。

たとえば、指先である部位を押圧するにしても、
足裏を決めて、押すと云うことをする、、

足裏に意識を持ってゆくということでもあるが、
足裏で捌くとは、、?と問われても
上手く表現しがたい、

かつて、明治以前の日本人が
普通に動作していたすり足のような
足捌きでもあるともいえ、
足裏の運用法でもあるといえるし、
まずは、実践されることをお勧めしたい、、。



しかし、あらゆる実習は
無意識の連絡通路にそのたびごとに
引き渡しておくべき、なのである、、、。






→季よみ通信 ~白山サイド













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