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2012年6月

2012年6月25日 (月)

其の12 自分は生きるものか、死ぬものか、、、、




整体生活と云うものがある。

野口整体の世界に一歩、足を踏み入れれば
おおかた誰しもが、その身体観を生活化してみようと
引き込まれるように歩を進め始める、、、。

整体的な身体観を習慣として実践することで、
整体的な自律した生活を送る、と云うものである。



いわば、「自主管理な身体」と云うものを
めざしている。


生きている当人である、本人が
自分の身体の主となって
生き抜いてゆくと云うのは、
ごく、当たり前のことであるし、
逆に逃れようのないものでもある。

自分の身体が嫌であっても
自分の性格がおぞましかろうが、
逃れられないから、
人は、のたうちまわるのであるから、、。


けれど、
自分自身の身体に何が起こっているのか、
今、自分の身体の中の何が動き出し、
何が停滞して何が困難をなしているのか、
明確に自覚化している人は少ない、
いやほぼ、世の中には存在しない、、、。



整体生活の究極の目的と云うものは、
自分は生きるものか、死ぬものか、、、
どちらなのかと云うコトが、
その時、その場で感覚出来ると云うコトに尽きるとも、言える。

人は、
自分がやがて死に向かいつつあると云うコトは
何となく判っていても、
一体、いつ死ぬのであろうか、、、と云うコトは
判らないのである。


いや、これは、
理由のあることで、、
実際、33年後に自分の寿命は尽きるのだと
そんな先のプログラムを本人が判っていることの、意味は
あまりない、と言える。

身体にとっては、
いつ頃まで、無目的な消耗活動を続け、
いつから養いとなる精神活動を引き起こすアクションを
仕掛けるかとか、
どの時点で、人生を折りたたむ準備を始めるかと
云うような事を、計画するには
必須の情報であるので、
逆に、身体においてはこれはすでに自明のことなのである。



その時、その場で、
必要な時期に、あぶり出しのように
意識の水面に、ふっと
浮かび上がればよいのである。

ああ、自分の人生は
もう終わりなんだな、、、、と。


本来、それが難題であったわけではない。
死の自覚化と云うのは、生き物にとって
当たり前のことであり、
まさに粛々と執り行なわれる
最後の工程なのであるから、
何をいまさらと、、きっと
他種の生き物たちは思っていることだろう。


しかし、人は
死を不安がり、怖れる。

身体は、その時に至れば、実に潔いものだが、、
意識の総体である「自分」と云うものは
いまある自分が、何処に向かっているのか
皆目、判らないために
何十年も先のことを、不安がり
焦り、もだえている。


自主管理な身体、と云うものは
これを、ふっと気付けるよう
意識の一部を身体化しておくことである。

いや、そのすべてを
感じ取り、次にどう動くのが良いのか、
すべてが判ってしまうなどと、云うコトは
さすがに尋常ではない。
ありえないことである。

ただ、
半歩先、一歩先の
進む路がふっと判断できるのだ。

まだ大丈夫だ、
自分は生きようとしている、、、、。



とりあえず、客観的に
判断する方法はあるのだろうか、、
「自主管理な身体」の初歩の段階で
修めておくべき身体の診断法がある。

脈を観る、
お腹の弾力を観る、、
この二点がある。

両方とも
普段の自分の平常時の様相を
把握していなければならないから、
観察を余念なく行なっていないと
異常時に、それに気づけない。


脈は一息四脈が平常である、
呼吸1回に脈を4つ打つ。

体熱が上がったり、
身体が急激な変動への対応と復元を図っているとき、
脈は早まる。
一息四脈を破ることになるのだが、
四脈より多く数を打つのであるなら
あまり用心は要らない。

逆に四脈を割る、少なくて非常に遅く力弱い脈は
警戒する。

頭を非常に強く打ったり、
身体の内部に強く衝撃を受けたような場合の、
このような脈は、
本当の意味で安静が必要となるし、
救急対応の現代医療にお世話にならなければならない
時もある。


さらに
何テンポか飛んだり、打つ強さが一定でなく、
きれ切れで不安定な不整の脈は
最大の注意が必要である。


脈の乱れ、異常は
身体の羅針盤となりうる貴重な情報源なのだ。

首筋の二点と手首の一点の脈の合致で
身体のすぐ行く末を占ってみる、と云うのも
よく知られた整体的な脈による身体知である。



お腹の弾力とは、
言葉通り、「弾力」と云うもののことで
呼吸に合わせて、盛り上がり、へこみ、
また盛り上がり、する
お腹の張力のことである。

お腹の潮力、と言い表してもよい、、、。

潮が満ち、退くように
身体の波によって、その力感は移り変わる。

満ちるほうに力強い時もあれば、
退(ヒ)くほうに力を感じる時もある。


満ちるも退くも、いずれの時にも
変わらず感じられる、しなやかな水の束が
奥にうねっている。

お腹の呼吸の山なりに手を乗せ
その呼吸の拡縮についてゆくようにしていると
このうねりを、感じられる。

ためしに、吐き切った底で
やや押圧をかけてみると、
しぼみきらない、この水の束の弾力を
感じ取ることが出来る。


このしなやかな弾力があるうちは、
どんなに変動が激しかろうと
心配はない、、
にぎやかに症状が打ちあがっていようと
まったく不安はないのである、、、。

この弾力がぼやけ、
ふにゃっと力を失った時、少々
用心が必要となる。


あるいは、いつのまにか、
ぎゅっと硬く小山のように結ばれた縦長の
帯のような、押さえても、圧しても
凹まず、沈まぬ硬直の束が
生まれていたら、、
心理的なものや、緊張状態に強いられた
休まらない頭による
内臓への負荷を疑うべきであり、

いよいよ、
力弱く、弛緩して盛り上がることもなく
ヘニャっと凹みきってしまったいたなら、
回復に相当の時間と注意が必要である事を
覚悟しなければならない。


お腹と云うものは、実に面白く、、、
さまざまなコトを教えてくれる
情報ステーションなのである。

弾力のみでなく、
気的な温かさや、呼吸の部分的な入り具合からも
その偏在によって、
どこに、どのように偏って気の集注が
在るかによって、実にさまざまな体状況を
読み取れるのだ。


けれど、ある程度
観察が出来るようになると、
今度はその色合いがころころ変わるごとに
一喜一憂が、始まる。
これはあの、、これこれの症状の、、、、兆候を
示しているのではないか、、、、!?

観察法に習熟しても
気の休まる時がなくなったりする、、、。

つまるところ、
観察は、やがては判断法ではなく
確認の術とならなくてはならないのである。


観察に長けてくると、
勢いが、観えてくる、、。
勢いが、隆盛なのか衰微なのか、、
波が満ちてくるのか、退いてゆくのか、、、、

気における「勢い」が見え初めて
やっと、入り口に立てた
ともいえる。

慣れてくると、自分の身体のみでなく
他者の身体も観えてくる。
今、起こっている変動、症状は
さらに暴慢するものなのか、
いやこれで、おとなしく収束されてゆく、、
と云うことが観えはじめる、、。


部分的なステージごとの変動の
盛衰、つまりは
「生」の方向に向かっているのか
「死」の方向に退いてゆくのかが
判ってくるのである。



整体生活と云うものは、
このような身体や季節や自然や
人生や世界や、
木やら草やら、生きものの表情から、、
勢いを、感じ取れるような
生活なのである。

何となく、いつのまにか
その勢いだけがコンパスに
生きてゆく事に
なるのである、、、。






梅雨は、古い故障や溜めこんだ疲労が
浮き上がってくる季節である。

鈍りと停滞の季節のような
体感であるけれど、
この時期こそ、一皮、古い皮を脱いで
脱皮できる好機にもなる、、。

何をどう、感じ取るかにかかっており、
感じ取った分だけ、やがて変わってゆく、、、。
感覚ではなく、
それが何処に向かってゆくのか、
どう云う空想に結びつくかに、
関わっているのである、、、、。





→ 季よみ通信 ~白山サイド




















2012年6月11日 (月)

其の10 和風はカラダいっぱいに吹く、、



日本には、四季がある。

気温も湿度も、ぐんぐんやら、うねうねやら、しながら
季節の流れにつき添いながら、
寄せたり引いたりして、暑さや寒さの色をかもす。

風や光の量も、
音や水の近さも、季節の動きそのものとして
動き続ける。

変化してやまない世界にいて
何事も起こらない安定を望むのは
失礼千万な事なのかもしれない、、、。


しかし、人は安寧と平安を望む。



「養生」と云うものは、
20世紀後半にいたっては、
「衛生」と云うものに、
とって変わられてしまったけど、

変転してやまない自然の動きと、
身体の変化と、、、
変幻し換わり続ける
身体と世界の一つながりの「体気象」
とも云うべきものに、
いかに対応し、これに一本の芯となるものを
打ち込んでおくべきかを、
自在に巧妙に、半歩先に
手を打っておく方法論なのであった。


「養生」と云う、季節とともに
生活する方法論を、失ってしまった現在、
季節を読んで、対応しましょうと云う提案は
一般的には、感覚として
判りにくいコトになってしまっているのかもしれない、、、。




野口整体には、風に対する養生法と云うものがある。

四季に応じて、
身体に吹き付けられる風の方向を
論じている養生法である。

四季の身体においては、
湿度、汗と乾きと云うものが
大変重要なファクターとなっている。

汗がどのように、風に吹き付けられ
乾くのか、、
乾燥した時期に、凍えた風が
いかにカラダを脅かすのか、、、
その、吹き付ける、吹き抜ける、
方向の、何に注意すればよいのかを
養生として説いている。



夏は、身体全体が放熱しようと
世界に向けて、開いている。

汗をかき、気化させることで
熱を奪われて、放熱している、、

たっぷり汗をかいた後に
木陰で、そよそよした風に
吹かれるのが心地良いのは
理にかなっているのだ。

この心地よさは、
身体の前面に受けるのが
なおさら心地良い、、。

胸から額から
暑気が吹きとられ、
熱が発散してゆくのが
ことさら、なのである。


夏は、身体の前面に
風を受けるのが養生である。

逆に、知らぬあい間に
背面から風をうけて、
首筋やら、腰やらにかいた汗を
冷やされてしまうコトが
身体を危うくする端緒となる。

知らぬ間と云うのは、
眠っていたり、であるとか
外気温からすれば、異常事態である
エアコンの冷気を
ワゴンセール品に気を取られている隙に
首筋にかいた汗に吹きつけられて
冷やされたりする場合である。


夏は、呼吸器が旺盛にはたらき
胸が開き、身体前面から
どかどか放熱してゆくのが
健康的な生活と云うものなのだ、、



冬は、反対に
北から吹いてくる風を
背中で受ける、、
ごうごうと吹き付ける突風に
背中を押されながら、
吹き飛ばされるのが、
とんでもなく心地良いのは
この理のためである。



湿度も気温も上がる夏季の
過ごし方と云うのは、
汗の処理を、いかにするかと云うのが
養生である。

汗をいかにかくか、
汗を冷やさないかと云うのが、
最重要課題なのである。




「冷え」と云うものには、
入り口がある。

東洋の古典でもある
傷寒論は、この「冷え」と云うものが
どのような経路で身体に入り込んだのか、
それによりどのような「傷寒」を
身体に及ぼしているのかを
緻密に詳細に論じたものであるが、
確かに、「冷え」は、
何処からでも、冷えるモノではないのである。


汗をかき、
風にさらされ、
冷やされる事で
「冷え」てしまう、、、
これは、夏季の基本的な
「冷え」の形態である。

けれど、
半裸に近い状態で、
その辺にごろ寝しても、
何でもない人たちは、何故?
「冷え」ないの、、、。
と、疑問に思う人たちがいる。

確かに、
湿度がちょっと、上がっただけで
いちはやくTシャツ一枚にハーフパンツに
裸足に草履、と
平気で空調のぎんぎん、効いた
鉄筋鉄骨コンクリート造の商業施設に
入ってきたりする人たちがいる。


どうなっているのだ、、、、と。


梅雨の初期であるこの時期、
「冷え」の入り口は
下肢にあり、
膝下のスネにある。

膝頭の下部のすぐ下の
足三里と呼ばれるあたりの向こう脛の外側のクボミと
その反対側の内側のクボミに横断する
水平のラインの口と、
もう一箇処は足首の、外踝クルブシの上のクボミと
その反対側の内踝クルブシの上のクボミに横断する
水平のラインの入り口である。


「冷え」の入り口は、ココには違いないのであるが、
どんな場合にも、入り口になっているのかと云うと
そうでもない、、。

ありゃりゃりゃ、、、どうなっているのだ、、、、と、、。



ためしに
アキレス腱を伸ばすように
つま先を立ててみる、
足首がくの字に曲がるように
足の裏側を伸ばすのである。

すると、前面のスネのあたりに
急激に吸い込んでいる感覚が
生まれる、、、

逆にアキレス腱を縮ませ、
足先をスネと水平に、
向こう脛スネを伸ばすようにすると、
この前面のスネからは、
何かもやもや、発散する感覚がある、、。

この「吸い込み」と「発散」という感覚は、
「体気象」と云うものを
感じ取る上で、実に大事な
体感覚なのである。

これは、自分の身体の実感としても
他者の身体の観相としても
感覚できる気のモニター法である。


意識的に
アキレス腱を伸ばしている訳ではないのに
常に、アキレス腱が張り詰めて緊張状態で
ある人たちは、
この「冷え」の入り口が、
開いている。

吸い込みの気の流れの体勢を
常に取っているのであるから、
冷えは、入り込みやすい。

逆に、アキレス腱は弛み
適度に関節が開いている人たちは
ハーフパンツだろうが短パンだろうが
涼しげなオープンな衣服をまとっても
冷える事は無い、、、
外気に直にさらされた肌からは
ぐんぐん放熱されるのである。


アキレス腱周辺の緊張が抜けない身体は
腰椎1番の椎側も、常に抜けない硬張りを
作っている。

「冷え」が入り込むと、
この硬直したラインが
胸椎11、12番と云う、腰椎のすぐ上の
椎骨のワキの椎側に
上がってゆく、、、。

腰椎1番がこの時、
下がって真下の2番に
くっ付いてしまうと、
胸椎11、12に上がったラインは
椎側の三側と云う処に
入り込み、腹痛を起こし始める。
急激に下したりするのである、、、

逆に、ラインが
一側に入り込むこともある、
腰椎1番が上がったまま飛び出し、
胸椎12番にくっ付いてしまっている場合である。
この場合は、
さらに胸椎の上の方、上胸部に絡んでくるので
また別の冷えの様相を呈する。
「冷え」は、このラインを
昇りながら、肝臓に入り込むこともあるし、
一気に上がって、胸椎1、2番を硬張らせて
肩や腕、首の筋や腱を硬直化して
動きを阻害したりする。



さて、「冷え」の入り口が
開いていないのに、
「冷え」の問題を抱えている身体もある。

これは、
足首などの関節が開きすぎている身体である。

この人たちは、
非常に肌の感覚が鈍い状態に陥っていて
汗をかけない、、!

ゴムのように粘りついた厚い肌をしていて
汗をかけないために
大変に暑がりである、
半裸に近い格好をしていても
涼しげな感じがしないし、
空調をキンキンに、効かせたがる人たちである。

この人たちの「冷え」は、
皮膚や泌尿器系にあらわれる、、、
厳密に言えば、「冷え」そのものではなく、
「汗の内攻」なのであるけれど、
かけない汗のための変動を起こすのである。

この人たちにも、
「冷え」が、入り込むことがある、
別の入り口が開けられたのである、
この場合、冷やされて「冷え」たというより
内攻した汗が冷えを、呼び込んだと云う
感じに近い、、、。

このような冷えは、
血行の問題となる、、
循環器やら血管の変動を起こしやすいのである。


腰椎3番が捻れながら、腰椎4番の力が抜け
引っ込んでいる、、
1番は上がったまま硬張り、椎側に弛んだ一点が
生まれている、、。

汗は、冷えて内攻もするが
かけないことで、内攻もするのだ、
かけない内攻は、つらい、、
泌尿器がフル稼働しても追いつけない、、




身体は、
季節に動いている、、

各々の身体の特徴と癖に応じて
急処となるべき点とラインをつくりながら、
鈍りもするし、活発に活動的であったりもする、、

この時、どのような身体にも
適う、ピッタリとした解決の糸口である
季節の急処と、云うべきものが
発現する。


どういう原理で、このポイントが生まれるのだろう、、、。


整体には、活点と云う
調整点が、身体のあちこちに存在するが、
この活点も、
いつでも、開いているわけではない、、、
見つからない時さえ、あるわけで
これも、入り口が開くように
持ってゆかなければならないのである、
開く必要を、身体に呼びかけないと
いけないのである。



季節の急処は、
この呼びかけ口を
身体そのものが、気象を先取って
用意したものなのだろうか、、、、、。

急処が何故、生まれるのか、、
どうして動くのか、を
究明するのは、また次の機会に、
と云うことになる、、、、、、。








、、、、あゝ

南からまた西南から
和風は河谷いっぱいに吹いて
汗にまみれたシャツも乾けば
熱した額やまぶたも冷える、、、、、、。








さて、
白山治療院の指田さんの、的確で詳細な解説のおかげで
私のつたない言葉足らずの文が、毎回見事に完成されている。

うーん、私が脱帽なのである、、、。




→ 季よみ通信 ~白山サイド











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