2014年3月 8日 (土)

季節読みのブログ、試運転再開





まずは、突然の休止によりご心配とご迷惑を
おかけしたことをお詫びいたします。

当ブログの再開については未定ですが、
以下に記載のブログ内で、季節読みの試運転としての
公開を始めました。


何らかのご参考になれば、幸甚です。



季読み帖~気法会ブログ
(季読みあと帖を改題したものです)



















2013年11月 8日 (金)

ブログ休止のお知らせ




本来ならば、この稿は
白山の指田さんの其の27からの
胸椎7番のバトンを受けての稿となるはずであったけれど、、
当方の事情により、
この「季よみ」ブログはしばらく休止と
させていただくことになりました。



胸椎7番は、ヤジロベエの中心軸のような
役割を担い、この数年の過敏な硬直状態も
確かに環境に染み渡っている放射能汚染が
深く絡んではいるのであるけれど、
中心軸としてゆらゆら左右の重心を
あちらこちらに移しながら、微妙なバランスを
取っているもののようなのである。、、、、



と、云うような文面となる予定であった
其の28は、たぶん日の目を見ることはない、、。


このたびの休止は
ひとえに私個人の事情によるもので
身体気法会の活動の休止と
因を同じくするもので、
さほど大げさなものではありません。


長い間、ご愛読いただきました
皆様には、深く感謝いたします。

ありがとうございました。



















2013年8月 6日 (火)

其の26 堂々めぐりの身体、とまどう体~1





私たちが抱える困難は、
身体の問題であれ心の問題であれ
境遇であれ、そのいずれも
容易に抜け出されずに、逃れられない強迫性をもち、
どうにもならない無力感に塞がれたまま、
身体だけの問題に納まらず、
心のみの自己解決では容易でなく、
どうジタバタしても、まとわりつくように
絡み合った、おのおのの境界を越えた
連鎖の中にうずまってしまっている、、、。



たとえば、
新型うつと云うのは、
非常に捉えがたい病症である、、。

自分の興味や熱意が向くものなら
どんどん動けるけれども、
少しでも負荷がかかりそうなものについては
とたんに身体が動かず、気力も喪失する、、

これは病気なのか、、?
誰だって、気が向かない嫌なことに向かうのは
身体が重く、気持ちも先に動いてゆかない、、
それを、ただ、いやいや、と
スイッチを切ってしまうのは
ただの気まま、わがままの
怠け者なのではないか、、、
と、「普通」に生きている人々は思う。


心に負荷がかかりすぎれば
身体は変調を現わしはじめる、、
その変調を解くのは容易でなく、
一般的には対症的に、今、過敏で休められない身体や精神を
薬物療法でなだめるしか手を打てない、、。

得体のしれない新型うつも
同様の方法論しかもたないのである、、



体運動の構造の視点から、
このような身体を観れば
腰椎5番は弾力を失ない奥に引っ込み、
骨盤はガバッと開いて後屈している。

骨盤の後屈による負荷は腰椎4番を
硬直させ、限りなく5番側に下がってしまい
くっ付いて棒状を為している、、、
あれっ、、!?5番は?
となかなか当たらないが、ふにゃっと
まわりの筋や脂肪に隠れて、頼りなく
奥の方でちょろっとぶら下がっている、、、

場合によっては、
後屈の負荷を腰椎3番が耐えて、こらえて
捻れたまま可動性を失ないつつある身体もある、


問題はこのガバっと開いて後屈した骨盤が
ゆるゆるの大きめのおむつカバーを着けているような
この身体は、
まったく逡巡したまま、どこに向かうのか
どこに行きたいのか、決意できない体である点なのである。

もともと、腰椎5番の「引っ込み」は
4番の問題の肩代わりとも、元来が弱腰のくせに
4番の荷物を背負わんとしたがためでもあり、
4番が1番の叱咤か、3番の激励にも
耐えられなくなった時、
がくんと、ともに崩れ落ちてしまった結果である、、、


このような身体では、
まず動けない、、

いや動けないのでは、あるけれど
動こうと思えば動くことはできる、、
しかし、動かなきゃと思う観念が
身体に結びつかないのである、
自分の体なのに、、、。

このもどかしさは
腰椎5番の力が抜けてしまっていれば
当然感じられる頭と体の距離感である、、

5番が抜けた6種的傾向(体癖的分類)とは、
このようなもどかしさであり、
当人にとっては、
頭の中にできた庭を、思い通りに
しつらえることだけが、唯一
自分が生き、動いている感覚と
いえるのである、、。

当人は頭の中に作り上げた庭のガーデニングにしか
集注できないのであるから、
このもどかしさは、
周りの人間こそが感じる
もどかしさでもある、、

しかもここに、腰椎4番が連動して
骨盤が開いたまま固まってしまっていたなら、
きわめて自己中心的にしか
行動できないし、集中力が持続しない、、

この6種的な頭の庭の築造は
大変な熱中と収集力で
運営されてゆくのである、、、、


頭の中の世界って、、、
じゃあ、上下型(体癖的分類)の大脳昇華型と
どう違うの、、?と云うとことであるけれど、、、

上下型は、頭の中に庭は作らないのであり、
1種の頭の使い方は、
系譜的であり、道順を持った地図を
進んでゆくことであり、
2種の、それは
頭の中に蜘蛛の巣を張り巡らすかのような
使い方をして、
結局、自分がその網目に引っ掛かり捉われてしまうのである、、、

もちろん、
体の不調、違和感と云うものは
どんなに、頭の中で増幅して感じようが
明らかな痞えツカエとして、身体に刻印されている、、

筋肉や腱や筋膜やらの硬直や弛緩が生まれているし、
ごく小さな部分的な弾力の無さであっても
身体にとっては、不愉快で不都合な
全体のバランスを崩す可能性のある
修正すべき部位、ポイントとなるのであり、
これをかなり明確にはっきりと頭、意識に伝えるのである、、。

これらの「症状」は検査や投影画像などでは
捉えきれない、、
このような粗い観察では、その大まかなザル目からは
零れ落ちてしまうため、
いやあ、異常ありませんね、、様子を見ましょうか、、、
で、終わってしまうのである。

そして、このような
不愉快な感覚は、「ここっ!」と云う
特定部位が伝えられないもどかしさを持っている、、

だいたいこの辺が、何か詰まったような
苦しさ、、だるさ、、疼痛感、、がある、
と云うように、その部位を特定できないのである。

首周辺、頭の過敏傾向、肩あたりの上胸部などの
全体的な過緊張状態が続いている身体は
特に、部位的な鋭敏な感覚を
ウツロにさせる、、

身体気圧的に言えば、
いわゆる「気が上がったまま、固着している状態」だと
身体のあちこちの異常感は、
大まかな何か拡大された違和感としか
伝えられないもどかしいさがあるのである、、。

頭と身体が繋がらない、、

身体の動きが、頭からロックを掛けられている、、
この思うように動けない、もどかしさ、、
変わらない、じれったさ、、、

頭が体にロックをかけているというより、
頭の中のロックが、身体の連携にストップを
かけていると言えるだろうか、

頭の動きが
まるで、身体に波状的に
浸食しているかのような干渉が
身体のきわめてシステマティックな
調整機能を混乱させるのである、、。


頭の動きと、身体の統制的で機能的な単純化された
動きは、異質な特徴をそれぞれ備えている。
身体は、いくつもの危機管理的な複層的な
備えを段階的に用意してはいるが、基本は単純化された
5系統の動きに集約して運行している、、
頭は、何と云うか
縦横無尽と云うか、自由気ままと云うか
同時に複層が、並走して動くなどの
捉えがたい、予想のつかない動きを
常にしているため、これらは
首と胸によって、語法変換されて、
信号を行き交いさせる必要がある、、。

そのため、常に柔軟な
首と胸を保っている必要があるのである、、


この調和が崩れる、、、

ヒトと云うものは、
特殊な進化をしてきたけれど、
この点においても
他種にはまず見受けられない
このような混乱を、よく呈する生き物なのだ、、




この夏、
この頭と身体の不調和の
きわめて近似的な状態が
続いている、、

夏と云うのは
身体気圧的に云うと
気が上に上にと上昇し、
頭部にこもった気熱が
頭部から頭頂にもくもくと、
抜けてゆくのが、
理想的な運行なのだが、
これが、頭頂部からずれて
やや前部とか、左寄りだとか
右寄りだとか、後部にずれたりなどすると、
そのまま気熱がこもって、
頭や上胸部の過敏緊張傾向を生み出す、、

一過性のごく初期的な段階であれば、
不快さや違和感は、
この上胸部から頭にまつわる不快となって
感覚されるが、、
緊張状態が硬化して長引き、潜在化すると
胸の圧迫感や動悸や細動や
息苦しさ、めまい、頭重などの
範囲が広くポイント的でない帯域的な
不快感、異常感となってゆく、、、

このような状態に進行する前に
肋間筋や肋骨そのものの硬化が始まり、
片側が下がってきているのだが、、
当人はこの段階では、気付けない、、、、、




梅雨の始まりには、例年
皮膚の再活性化がすすめられる、、。


今季の梅雨明けは、ここ最近に珍しく
素直な幕開けだったように思う。

じとじとした空気感といきなりむくみ、ダルついた肌と
ちょっと動けば汗がダラつくといった
久しぶりの湿度感のある梅雨明けであった、、。


その後、今一つな展開で
じとじと感がいまいちだなと思っている間に
かっと、7月の初旬に俄かの熱風とともに
夏に突入してしまったが、、、、


皮膚はたるみ、むくみ、
感覚が鈍化する感じがあるけれど、
盛んに新陳代謝を繰り返し、
廃用と再生を準備する、、

真夏の排熱と発汗、
冬の寒さと乾きに耐えられる
皮膚をしつらえるのである、、。

手技を生業とする私たちなどは
この梅雨の時期に、手のひらの皮が
剥けはじめ、何倍もの鋭敏な
新しい皮膚をもらいうける、、、


皮膚が活性化し、再生を図るとは
頭部の過敏な傾向がしばらく続き、
また泌尿器系等の活発な活動を
指し示す、、。

梅雨が明ける頃、、
泌尿器系等の草臥れがピークとなって、
呼吸器の盛んな活動でこれを補い、
代謝運動の最も大きな振幅の時期を
乗り切ろうとする、、、


この夏の身体の
基本の構えとして
骨盤は、2月くらいから
徐々に段階的に開きはじめ
大きな関節である頭骨や肩甲骨も併せて
開方向に運行を進め、
皮膚は弛み、開いて、汗や分泌物や内外のガス交換も
盛んに行なわれてゆく、、、、



夏の皮膚の動きは、まさに
最前線であると同時に総司令部でもあり、、
八面六臂の活動を繰り広げる、、が、
泌尿器と呼吸器の感覚器としての
先鋒でもあった皮膚が、
今季のように、急激な高温と熱風にさらされ
ガバッと骨盤が開いてしまうと
にわかに鈍り、汗が痞え、塩を溜めていってしまう。

温度上昇で、気熱がますます
頭部に集まってくると、
総合的なバランス感覚で優れた
皮膚の思考頼みの頭は
鈍って感覚を欠いた皮膚への
過剰な信号を送り続け、
切ったり、ぶつけたり、湿疹を吹いたり
膿瘍の過度なエネルギー転換を図る、、。


この皮膚の感覚を失調するということは
実は、文字通り外的な刺激に対して、
鎧化して交渉を絶ってしまうということに
繋がってゆく。

自分の周りの環境との間に鉄門を下して、
コミュニケーションを取りたくなくなるのである、、。



身体は一挙に、堂々めぐりの状態となり
頭のロックがかかってくるのである、、、、




ヒト特有のこの頭の動きの浸食については
また、次回別の視点から
お話しを続けることにしたい、、、。






季よみ通信~白山サイド

















2013年6月21日 (金)

長い間、、、。




突然の長いブランクを、お詫びいたします。、、

と、また唐突にお詫びからとなったが
様々な要因が重なり、長く休載することになってしまった、、。


やっと、復活のめどが立ち始めたので
ここに再開の告知をしたいと思います。

7月には、また再び白山の指田さんとのコラボを
額に汗を滲ませながらも
楽しんでまいりたいと考えております。

皆様、よろしくお願いいたします。


けれど、ずいぶんと
骨休めとなる休暇となったようで、
頭の中ではいろいろと、構想が
飛び交いしている、、。

それに、この半年の奇怪な停滞にも
見事にリンクしてもいたと

今となってハッキリと確認出来た
休養であったようなのである、、。


では、また来月に。


















2012年12月24日 (月)

其の24 と、思い込んだ、その先





「病気」は治るが、「病人」は治しがたい
と、名言がある。


「病気」は、治すというより
治ってしまうというものであるし、
生きる方向にベクトルが向いている限り
修復され、復元される。

医療のやっているコトは
治るものだ、という前提で
その施術法の構造が出来上がっている。

医者は、往々にして
感違いをするが、
他力の施法は、ごくごく限定的にしか
手助け出来てはいないのである。


「病気」は、治ってゆく、、、

どのような見当違いの施法を
受けたとしても、それを何らかの手がかりに
「良い方向」へと転換してゆく、、

「生きる方向」にベクトルを、、
羅針盤を調整するのである。


治療とは、本来身体力による治癒を
少々手助けしながら、
その変動に込められた身体の意志、とも
いうべき要求を読み取り、
本人の随意能力ともいえる、意識的な体力にも
その道筋を示すことなのである。

実は、このとき
この意識的な体力が
反発するケースがある、、、。




「病人」は何故。生まれるのか、、?
病んだ人々は何故、
頑固で融通の利かない硬張った心に変化してしまうのか、、


「病気」でなくとも、現代では
病んだ社会が、傲慢で狡猾な硬張った心を
持った人々を
多量に発生させているが、、。

なぜ、障害だらけで
真っ直ぐに自分の能力を発現させるに
妨げとなる状態を、状況を
改善することに、背こうとする
この反発が、心の中にはあるのだろう、、。




人の心は、
「と、思うように、、、」に、
向かっている。

理由は、はっきりしなくとも
「と、何となく思われる、、」
と云う方向に進んでしまうのである。

「と、思う、、」と云う漠たる空想は
なぜ、生まれたか本人にも分からないまま、
ふくらみ、根付き、、
知らぬ間に確信めいて
心の真ん中に建立されている、、。



脳科学者のアントニオ・ダマシオは
人の意識行動は、
as if」によって、振る舞われていると
指摘している。

as if」…あたかも、、であるかのように、、
振る舞いながら、
やがて、まさに、そうであるかのように、、
行動し、
と、思われる、、ことに沿って、
物事を振り分け、体系化してゆくのである。


このダマシオの「as if」
森鴎外の作品「かのように」に結び付けて
私の叔父さんが、自前のHPでエッセイを
連載している、、。

鴎外を持ち出すところが、叔父さんのセンスの良さを
感じさせるが、
「かのように」で鴎外は、人の模倣による“成りすまし”の
利点を意見しているように思える。

鴎外の時代の明治においては“成りすまし”とは、
異世界の文化を理解し、吸収するための
方便であった。

ある種、日本人の新らし物好きの血が
猛進させたところもあったであろうが、
模倣による学習は、初期の体得法であると
今では、広く知られ認知されてもいる、、。


模倣は恥、と感じる向きもあって
当時から相当の軋轢があったのだろう、、
それもひとつの見識ではあるが、
洪水のごとく流入する欧米の文化や様式に
抗って、“純”日本とも云うべきものを模索する
一群の勢力も台頭してきた中で、
模倣そのものをあるがまま、認めて
その価値を見出そうとした鴎外の「かのように」は、
非常に興味深いのである。


                ※叔父さんのブログ
                「脳の地図とかのように  NO101~106…」


ダマシオの「as if」ループは、
その根拠たる出処が明確でない気がするが、
「かのごとく」によって、
空想と行動が結びつけられているコトは、
人の感受性の動きを、つぶさに観察してゆけば
自ずから得られる回答なのである。




人が、不安定きわまりない自己を
「自分」として、存在させるには
自分を、このようなものとして、
規定しなければならないし、
そのようなものとして、成りきることで
自己が自我から“浮き彫り”されてくる、、。


「自己」が、「のようなもの」として
規定されると、にわかに
「ではないもの」の反力が生まれる。

「のようなもの」の中には、無意識のコンプレックスが
繋ぎ糸のように織り込まれているからである。

「ではないもの」への反力とは、
憧憬であり、願望でもあるので、
永遠にたどり着けない夢ともなり得るし、
実現しうるかぎりの夢とも成る。

けれど、そこにはある種、忍耐力が
必要なのだ。
許容力と忍耐力を養おうとしないかぎり、
「ではないもの」を、お手軽に
「自己」の外側からかき集めてくる
人々がいる、、

それは、装飾であり、化粧であり、
はがれやすい「自己」への張りぼて、なのである。

「余分」なそれは、
過剰さを呼び込み、習慣性を帯びて、
あまりに厚塗りのため
やがて「自己」がどこにあったのか
自分の姿が何だったのかさえ
見失うことになる、、。


病人の抜けだせない、、
脱ぐことのできない「依存」という飾りが
コレである。



「のごとく、思う」や「のようなもの」は
身体が、感覚した信号を
どのように脳にマーキングされたかによるのだが、、
野口整体では、おおむね
このあたりの構造を、椎側の連関(ループ)に
現れると指摘されている。

たとえば、内臓の異常は
三側(椎側の三つ分くらい外)や二側に変異を
呈するけれど、これらは、
内臓そのもの筋や神経の動きを
つかさどる自律神経系の停滞や失調を
如実に表わすものであるが、
それこそ、「か、のような」の無意識の空想に
関わる問題が絡み始めると、
とたん、一側(指一つ分外)の硬張りに
変異する。

一側は、頭の中にある汚滓である余分な彩飾の
裏にある「不安」「嫌悪」そのものを
ダイレクトに表現しているのである。


「かのごとく」も「かくあるように」も
「そのようなもの」も、すべて
不安でありながら、憧憬であり
嫌悪でありながら、希求である
実態のない靄のような実感、を
私たち、自己が
いかに使いこなすかを、試して
やまないのである、
実にその生を閉じるまで、、、、。


無意識と身体、
意識と無意識、、
身体と意識、
これらの関係は、絡み合いと表裏、
主導と突出、と
なかなかに多彩な綾なので、
また、何度か機会に応じて
論じてみたいと思う。


今宵はここまで、、、、









季よみ通信 ~白山サイド






続きの頁に、クリスマスの物語を
添付しました。
いっぷくの紅茶にでもどうぞ、、
     ↓

» 続きを読む

2012年10月18日 (木)

其の22 無意識の連絡通路




通信の其の21で、
指田さんから、バトンを渡された格好であるが、
私に何か特別な回答があるわけでもない、。


けれど、身体運動の術化においては
意識と無意識の配分というか、
無意識の連絡が、肝心要の“カギ”とは、なるのだ、、、。



一般には、意識と無意識の
関係は、主と従と考えられている。

意識が主体であり、、
無意識は、意識につき従いながら
これを補完し、意識の目的を貫徹する、
あるいは、
意識の澱オリでもある、心的なストレス群の
貯蔵庫として、まるで吹き溜まりのような
悪露の沈む漆黒の瓶カメのようなものとして
あると、捉えられている、、。



無意識の本当の役割が、何であるのか
判らなくても、無意識の巧妙な
手配は、微に入り細に渡っている。



私たちが、ひとつの型や決まり事を
覚えてゆく過程と云うものは
どのような順路をたどるのだろう、


たまたま、伺った
新聞配達員の方と、ギター教室の先生の
人がものを覚える道筋のお話しが全く同じ
言葉であったのに驚いたことがある、、。


配達経路の道順も、
複雑なコード進行理論も
最初こそ、
夜道を、消えかかりそうな提灯一個で
暗黒の中を及び腰で進むようなもので、、、
複雑怪奇な世界に紛れ込んだような、
不安と途方の暮れようで、
先のことなど、考えもおぼつかず
目前のことしか視野に入らない訳なのであるが、、

けれどある時、、、
何度も何度も同じ道、同じ練習を繰り返しながら
なお暗中のなかであったのが、
まさにある日、、
全く突然に、視界が開け、
すぽああ、と俄かに頭の中に順路と道筋が
最初から最後まで、いっぺんに
イメージでつながり、描けるように
なるのだと、いうのである。


確かに、仕事と云うものを
覚えると云うのは、
ある時から、次に進む手順が
ぱああ、とイメージで描けるようになることである、


これは、脳内の神経細胞間でシナプスが
盛んに道筋を探しながら、
ある時、一瞬の連続発火でニューロン間を
電気信号が疾走したのであろうが、
意識からの断続的な、刺激に
無意識が実に丹念に連絡路を準備した
結果といえるのである。


何らかの形で
誰もが、一度は経験していることなのである。


このような、閃きであるとか
判った!!と云う瞬間であるとか、、
何か降りてきたー!とか、
これら一切が、意識~「自分」にとっては
圧倒的な覚醒感覚を持つので、
何か特別な回路が開けてしまい、
すばらしい未来が待っているかのような
感覚に惑うのであるが、、、




私たちの日常動作と云うものは、
7~8割は無意運動である。

一挙手一投足を細かく、意識しながら
動いているわけではない。

ある動作に伴う意識的な形式は、
何度も繰り返すことによって
習慣的な無意動作におりてゆく、。


何も、いちいち意識化しなくても
目的だけ明確であれば、
知らぬ間に、身体が動いていて
ちゃんと、正確に作業しているのである。

意識的な形式が、
無意識化されたと云うことであるが、
このような身体にくっ付いた無意識の動作と云うものは
状況が変わって、新しい形式になっても
つい、知らぬうちにやってしまっていて、
習慣的な無意動作の正確さと危険を
ハタと知るわけである。


指田さんが指摘されているように、
活元運動などによる無意運動系の訓練を積むことで、
この無意識化の流れと
意識的変換が実にスムーズに
必要に応じて、サッと表現されるように
なる訳である。



これらのことは、
逆に言えば、無意動作化されない
型や形式と云うものは、
まさに、使い物にならない、、
と云うことなのであり、
過剰すぎる意識の反復は
無意識化をさまたげるモノにもなる。



意識と云うものは、
明滅する瞬間の「目覚め」に過ぎない、ともいえる。
一瞬いっしゅん消えて無くなるものの
残像をつないで、「自分」がつながってあるように
思っているだけなのである。

ちょうど、TVの映像がそうであるように
一コマ一コマの画像が、明滅してコマ送りされると
目の中の残像が、あたかも繋がって動いているかのように
錯覚させるのである。

「私」と云うものは、さように不確かなものなのだ。

それを、つなぎとめ、一連の連続した「私」に
錯覚させるものが、無意識であり
身体に密接に連携、反応する無意運動系と
云うものなのである。


このため、意識と無意識の双方の関係は
そこに微妙な按配が、必要であり、
それが重要なミソとなるのである。

過剰な意識の反復は、
無意識化に降り立つのを妨げて
脳内の関連部位への連絡を
途絶えさせてしまう。


形式や「型」と云うものを覚えるには
ちょこちょこ、チコチョコと無意識の連絡通路に
引き渡しながら、次々忘れてゆくつもりでないと
「型」にならないのである。

あらゆる記憶は、動作と五官の感覚を同時に伴うことで
確実に仕舞いこまれてゆくものなのだ。



この意識と無意識が往き交いする
微妙な按配を可能にするには、
繰り返しになるけれど、
無意運動系の鍛錬を経なければ、
なかなかスイっとはいかない、、。

最も近道で、感覚的である
活元運動をよく訓練されることがまず、第1歩である。
と、いえるのである。



さて、あらゆる動作を丹田で動く、とは
どのようなことかと、云うことであるけれど、、、

丹田で動くとは、足裏で動くということになる。

全ての動作において、
足裏を捌くことで、動きを図ってゆくのである。

たとえば、指先である部位を押圧するにしても、
足裏を決めて、押すと云うことをする、、

足裏に意識を持ってゆくということでもあるが、
足裏で捌くとは、、?と問われても
上手く表現しがたい、

かつて、明治以前の日本人が
普通に動作していたすり足のような
足捌きでもあるともいえ、
足裏の運用法でもあるといえるし、
まずは、実践されることをお勧めしたい、、。



しかし、あらゆる実習は
無意識の連絡通路にそのたびごとに
引き渡しておくべき、なのである、、、。






→季よみ通信 ~白山サイド













2012年9月 5日 (水)

其の20 可動域の狭窄 ~全てを生かす、全生の至難



長い休暇を利用して
芭蕉のように古道の山道を
歩いてきた。

芭蕉は、10時間で30キロあまりの道のりを
踏破する健脚であったという、、。

決して平たんでない、山坂を
黙々と、、、
否、ポツリぽつり
時として軽口や箴言を
呟きながら、進んだのだろう、、。


私も、
今にして思えば、
何でもないと鷹揚に構えていた節があった、、
日頃の自分の身体の動きから
妙な自信を持っていたのだ、、、。



20分も歩くうち、
おかしいなと思い始めた、、、。


平たんな道ではない、、
石が敷かれてあったり、
数日前の大雨に、土が流れていたりする
デコボコな道が、
上ったり下ったりであるので、
やおら足元に慎重になり、
カツカツと頭の上で燃えさかる
日の照りつけに、体力を
かなり費やしながらの行程なので
下肢の筋肉や腰の運動の
かなり限定された動きになっていたのかもしれない、、、、。


1時間も行かぬうちに
右膝に違和感を覚え始めた、、。


経年の蓄積疲労が気づかぬ間に
身体の裏側にため込まれていたのだろうと
フと、思った。

これは、なかなか厳しい道行に
なりそうだなと、珍しく
不安がよぎる、、。



数十分も行かぬうち、
急速な悪化で、ほぼ体重が
掛けれないほど、
激しい痛みが走る。

ずいぶん酷使してきたんだなと思う。

仕事がら、ひざを折り曲げて使う
正座姿勢が多い、
毎日、この姿勢を取り続け、
正座を起点に、所作の動線が
描かれる生活だ。

膝の弾力は、保っているし
大丈夫だと、妙な自負が
いっぺんに覆される、、。。



道は大きく下り道となり、
この勾配のある坂道を進むのは
かなりの困難を呈しはじめる、、

もはや、
趣きのある森の中の古道を
フィトンチッドに抱かれながら
ゆったり、葉のさざめきや
鳥の声や蝉しぐれに身心をゆだねて、、、、

などと云う、当初の
目論見は一挙に崩壊し、
悲鳴と苦行の
道行となってしまったのだ、、、。



時々、道は平たんな舗装道路を
横切ったり、少し進行したりする、、
この時が、痛苦によじれる下肢の
わずかな休息の時である、、。

道が平たんであれば、
痛みはずいぶんと遠のく、
このような小休止や
途中何度か立ち止まり、立ち止まりして
何とか、
「騙しだまし」の行脚が続く、、、、。


途中の舗装道は、
車道でもあり、バスが運行している。
残りの行程を、何度
バスに乗って、近回りしようかと云う、
誘惑に駆られたかしれない、、、




我慢を重ねて、3時間を経ようと云う辺りで
やっと、中継点である宿場近くの
里道らしい道なりになってきた、、。

行く先の目途、、
目標へのわずかな手がかり、、
手が届く範囲、と云う確信めいたもの、、
このような道しるべが
萎えて萎みきった身心に
活力と希望を与えるものである、、。



けれど、、、
これほどの痛みを
身体は、どのようなメカニズムと
方法論で、仕舞いこんでいたのだろう、、、?

表面化すれば、明らかに
使い物にならない膝なのである、、

そのデッドストック化されたジャンク部位が
ごく限定化された運動帯域で、
いまや表面化してしまった、、、




ほのかな先行きの希望が
灯ったすぐ後に、また土面の流れた
下り坂が始まった、、、

ここで、そろそろと足を運びながら
何とか前に進もうとしていると、
フと、ある感覚がにわかに、、
突然に閃くように身体に落ちてきた!


思わず、腰を開き
がに股の大股歩きで、
街道をワラワラーと、闊歩するかのように
坂道を下りだす。

大腿部の大きな外転と
腰椎中央の捻れを合わせた
大きな身体の運用である、、。


不思議と身体に快適な感覚が
生まれている、
快活で躍動感が出て、
さかさかと、足を運んで行ける、、、
なんといっても、
驚くべきことだが、
膝の痛みがまったく消失してしまっている、、!!




人が二足歩行によって得た
運動領域の拡大は、
他の生き物からすれば、
驚異の発展だったに違いない、、、。


型フォームによる体捌き(サバキ)から
生み出される自在な動き、
動きの要求から開拓される道具、
身体の延長としての道具は
やがて思念の生活形態化へと
発展してゆく、、、。


すべて、動きの自由さが
生み出した進化なのであった。


動きの開拓、
能力の最大限の開花!!


空想の中では
あらゆる関節は270度の
全方位の動作が可能なのである、、、

私たちの頭の暴走は
これを360度にまで開放して
現在の社会形態を作り出そうと
してきた、、。



けれど、
私たちも身体も、
そしてこの社会も
全方位の動きなど
出来はしないのである。

空想も、
全方位の自由さは
持ち得ていないのである、、。


あらゆる動きは
限定的にしか使われない。

思念の偏りは
限定的にイメージを
生み出すのである、、。

最も理想的な
空想上の筋肉の配分と関節の
自由さで、
動作できる人は
世界に存在しないのである。


限定的にしか使われない可動域は
個人の先天的な能力の偏りや
感受性の偏向によるもの
だけれど、、、

可動域が使われずに狭まるごとに
持っている能力さえも
使わずに済まそうという
狭窄化が進む、、。


使わなければ、能力も
可能性も萎んでゆく、、、
廃動萎縮、、
廃用性萎縮と云う
身体の効率化が
進められてしまうのである。



人の人生も、身体も
可動域の狭窄化によって
かなり、規定されてしまっているのだ。


私たちは、かなりの部分で
持てる能力の数十分の一くらいしか
使っていない、、、。

狭窄化によって、
限定的な一部の部分や方向の
使用頻度が増すばかりで、
やがて、過度な負荷が
機能疲労を起こし、
毀(コワ)れてゆく、、、。

この時にいたって、
やっと身体は使っていない機能や部位で
これを補おうとする、、
きわめて粛々と、、
当人の気づかぬうちに、、、。


可動域の狭窄とは、
環境における
人格や性質の規定についても
同じ構造を持っているといえる。

親や自分自身の
先入主や決めつけ、
認められ方によって
心も体もその方向性を
規定されてしまうのだ、、、

私は、こんな人間だ、とか
この子はこんなんなんでね、、、とか
言われながら、
限定された動きしかできない、
欲求しなくなれば、
使えるのに使わず、
そのまま萎縮して、
可動出来る幅は、どんどん狭まってゆく。


私たちの人生は
可動域の狭窄によって
知らぬ間に
自らの人生を規定して
狭い道を、狭い視野で
進むしかなくなっているのである。

私たちの持っている可能性、
十分稼働するはずの能力は
眠っているのだろうか、、?

否!!
身体は、可動性を狭めたその
部位ではなく、全く別の、、
その根っこのところと云うか
対応する離れた場処に
いつでも復元可能な
補完的な動作を受け持つ
修復体系を作って、
常に待機してあるのである。


私たちは、痛苦と云うものから
逃れるため、
いったん何処かに痛みを感じると
なるたけその部分を使わないよう、
動作を狭め、小さく使う傾向がある、
逆側の手足を用いたりして
庇(カバ)うのである。


これらは、
道理を得た方法ではあるが、
実は、その部分から遠い処に
それを補い、
動作を復元する
大きな動きによる修復的可動域が
必ずセットとして
準備されているのである。


かなり頭を柔らかくして
俯瞰(フカン)しなければ
見つからない、
オッと、びっくりするような
処に隠れているのである、、

けれど、
それは慣れれば
「見える」ものでもあるのだ、、、。



身体は、毀れたもの、
受容しきれない痛みを
ストック化し、
可動域を狭めながら、
生命の運用を続ける、、

可動域を限定化するのは
効率的で省力化でもあるし、
何事かの非常時には、
余力を有しておける、と云う
利点もある。

けれど、逆に
廃動萎縮を招き、
狭窄化して、自らの首を絞めるという
二律背反の
選択でもあるのだ。


全生とは、かくも
難しい道行きを目標としているのである、、、、。








嘘のように圧痛が消し飛んで
しまった膝を、難なく使って
すでに宿場らしい雰囲気の道なりを
何事もなかったかのように、
歩き続け、、
その日の行程を無事
終える、、。

理屈でわかっている
つもりでも、これだけの激変を
体験するのは、
生きてあることの不思議さを
まじまじと実感できた、と云う
言い難い「余韻」を
心に残した、、。



その翌日からは、
今度は前日の筋肉痛に悩まされつつ、
永遠と続く感のある古道を
歩き続けたのであるが、、

そういえば、
巨岩の重なる風光明媚な
名所に足を延ばしたとき、
ほぼ全身の動作を使わない限り
進めない岩場で、
これまた筋肉痛がまったく
消し飛んで、
全身の筋肉が躍動したことも
実に爽快な体験であった、、、。





→季よみ通信 ~白山サイド




















» 続きを読む

2012年8月10日 (金)

其の18 隔てるものとしては近い!!



何日か前に、ある報道が
TVニュースで流された。

私は、ネットの動画ニュースで見たのだが、、


マッサージや整体による骨折被害、、注意を呼びかけ、、。
と云うものである。

国民生活センターが、
発表したところによると、
ここ5年間で、マッサージや整体、カイロプラクティックの施術による
被害相談が825件も寄せられており、
そのうち4割は整体、カイロなどの国家資格のいらない施術法に
よるもので、
骨折や神経損傷などの重度の被害ケースも
あるという、、、。


ネット記事では、その下欄に
コメントが数件寄せられており、
その多くは医療関係者によるものである。

リハビリ関係の療法士から、栄養士、医師。。?などの
面々が、それこそ鬼の首でも取ったように
批判的なコメントを寄せている。

彼らの主張は、
国家資格のないものは
本来、人の体に触ってはならない!のだ
と云うもので、、、
それみたことか!!と、
鼻息が荒い、、。



この10年で、
○○整体の看板を掲げる
治療院は急増した。

多くは、バブル崩壊から始まり、
世界同時不況の金融崩壊に至った
資本社会の危機が放った
国内景気への打撃に
打ち飛ばされてしまった人々が
なけなしの虎の子を
民間資格取得で、開業!!の
看板に吸い寄せられ、
脂汗のひねりのごとくに、
数か月か1年くらいで
多額の出資金を、吐き出さされ、開業した
人たちである。


「整体」は、一時
資格研修ビジネスに、
荒らされ放題であったのだ。


不思議なもので
ちょうど、同じ頃、、
こつこつと修養し、
手技徒手法の道を目指す人たちも
独立している。

誰が掛け声をあげたでもないのに
同時期に、
謎めいて集中したのである。


そのお蔭か
「整体」と云う業種は
目を見張るほどの
市民権を得た。


腰痛や肩こり、身体のリフレッシュに、と
人々の選択肢にのぼり、
日常的な何でもない会話にも
「整体」の二文字が
するっと顔を出してくるようになっていた。


けれど、その中身は
危ういものである。

身体(カラダ)と云うものは、
半年や1年で簡単に触れられるものでは
ないのである。

掴み方、挙げ方、着手の角度、
圧の度合いから、
お互いの体の向き合いの方向まで
すべてが深い意味を持って
お互いの身体に影響を及ぼす
気の抜けないコミュニケーションなのである。



身体のコミュニケーションは、
しかしどんなに、簡便な技法にしろ
人々を真摯にさせ、
身体そのものの奥深くに
心を振り向かせようとする。

そのため、
開店して閑古鳥であっても
何の得にも儲けにもならなくても
技術を磨こうとし、
具合の悪い人に奉仕しようとする
人たちが生まれる。

身体とは、
不思議なくらい求道に
誘い込む森なのである。



森には、分け入ろうとも
触れようともしない
一群の身体「スペシャリスト」の
人たちもいる。

入り方はそれぞれ、一ヵ所しか知らないし
だいいち、木々や鬱蒼とした草むらが
邪魔なので、、
切り倒し、引っぺがさないと
何も知りうるものでないと
考える一群の人々である、、。


そこで、とりあえず、
小型ジャイロ式探査機を
森の無線操作の届く範囲で
データ収集させ、
届いたデータを
PCのモニターで眺めやる
人たちである。


彼らも、経験と知識を積み重ねれば
身体コミュニケーションの
感覚と云うものを知らず知らずに
身につけ、
患者の顔色や様子からだけでも
ある程度、状態を掴めるようになる。



しかし、
回復期と云うものを
どう捉え、活かすべきかを
知恵として、知っている
医療技術者も有資格施術者も
少ない、、、。


否、、!!
身体全体を、見通せ
その深い森の深部も知る
技術がなければ、
まったくの当て推量となってしまう、、
そして、
それを体系化出来た手法も
限られるのである。


身体とは、
その深い森に小石を
ひとつ投げ入れれば、
必ずスポイっと
何らかの返事を
投げ返してくるものである。

深くても、浅くても、、、

実に興味深い答えを
それぞれに、
投げ返してくる
無尽蔵な、茫とした
虚なる森なのだ。


身体は
世界を隔てる森でありながら
すぐ真後ろで
お互いに、まったく
別の方法で検地しているほど、
ごく近い存在である伽藍でもある。


他者と自分を隔て、
自分と世界を隔てながら、
常に開いたコミュニケーションを
取り合う、
ごくごく近しい境界なのには
違いないのだ、、、、。








→ 季よみ通信 ~白山サイド






少し、追記が、、、。
本文との繋がりが悪いので
別ブログに載せました。

ご興味のある方は以下のブログに、、。

季よみあと帖





















2012年8月 4日 (土)

其の外 ホリデイ月間


8月に入り、焼かれるような暑さが続く、、、
頭もすでに、燃え上がっている、、、。

そこで、今月としばらくは
大幅に更新間隔を空け、
また、内容も雑感、予断の
気ままなものにすることにします。

7月の末、
久しぶりに指田さんの治療院を訪れ、
お顔を拝見して、参りました。


数時間を、夢中のうちに語り明かし、
今後の季よみの方向性など、
お互いのものとしたのですが、、、


暗黙の裡に
まず決定されたのは、
このホリデイ、、

これで、よいのだ!!
なのであります。



という訳で、
次は、まず数日後に当方サイドでアップ予定の
「其の18 隔てるものとしては近い!」
を、期待ぜずお待ちを、、、。












2012年7月23日 (月)

其の16 急処が急処である理由



処(トコロ)、
整体における調律点。

急処は、急なる処であり、
その時期。時節に
急務なる調整点と云うことになる。

季節の肝点であり、
旬なるインターナルポイントである。



処と云うものは、
身体に無数に存在するとも言えるし
配列的であるといえなくもない、、、。

処は、位置をいうのでなく、
その表面の穴の感じや、
穴にあいてゆく感覚、
その底の、突き当たりの感覚を云うのである。


日本語に、トコロで、、、、。と云う
いままでの分節を区切り、話題をかえる言葉があるように、
ものの転換を図るポイントなのである。

整体に治療点は存在しない、、ともいえる。

ある程度、目的とするポイントを
効果的に刺激しうる「活点」と云うものは
あるが、これも広い意味で
転換を図り、変化を促す効率的なポイントなのである。

転換て、、どういうこと、、、?
と云うことになるのだろうが、
整体の身体観は、
常に変転し、動き、流れてゆくもの、
季節の移り変わるのと同じで
事象が変化し、移り変わってゆく
そういう実態として、捉えている。



身体は、ある方向性をもって
変化してゆく、、、。
その変化の流れが中途で
痞(ツカ)えてしまう、
その痞えを問題とするのである。

痞えは、ある系統的な
ラインで結ばれる反応点として
途絶えるので、
この最も急務なる焦点を見つけ出すのだ。


方向性とは、
要求の方向のことである。

身体の要求が
どちらに向いているのか、
今何に移り変らんとしているのかを、
感じ取らなければならない訳で、
その一つの目安となるのが
「体勢」なのである。



「体勢」は、
気の虚、実の転換によって
常に移り変ってゆく「傾向」の変遷である。


虚、実、とは何であるのか、、、、。

虚はウツロでもあり、退いてゆく感じでもあり、
弛んだ実態である。

実はコモった感じでもあり、押し出してくる実態でもあり、
張る、何ものかである。

虚の呼吸は、退いてゆく方向に力強さがあり、
実の呼吸は、張りや押し出し感に力がある。


これらが、虚実ともに同時に併存するのが
身体であり、心であり、
自然であり、動き、うごめく、
生きてある実態なのである。


体勢は、
虚と実の変転であり、
どちらが主としてけん引しているのか、
によって
体癖的な傾向を帯びている。



今季の焦点である急処に
ソケイ部を縦に横断するポイントが
存在する。

ソケイ部のやや下から
腸骨の突出し部分の下方までの
縦の10センチ強のラインをいう。
~詳細は、気法会HPに。

この急処は、季節の焦点であるので
やがて消える、、、。
一回限りの「処」なのである。




野口先生は、
子供たちとつかの間の休暇を過ごすさい
川辺に出かけたという、、。

川の流れに、
石を置いたり、移動させたりして
流れの方向を
さっと、変えてしまったという。

子供たちにとっては
とても新鮮で面白い遊びであったそうだ。



ひとつの置石によって
流れを一瞬にして、
転換させる、、。

このようなものとして
急処は存在し、
処は活かしうる。



身体は、四季12節を巡って
外気温や湿度、風の向きやら
空気の間合いなどに
適合するよう、
もっとも使いやすい系統の
働きを主軸にして
その変化をしのいでいる。


夏は、代謝系をフルに稼働させて
この湿度も日光も
過剰な世界を切り抜けようとする。

しかし代謝系である呼吸器も
泌尿器も主従入れ替わりながら
活動しながら、
うまく連携がとれなかったりすると
妙なところに渦が巻いたり、
流れが途絶えたヨドみが
生まれたりする。



今、足の裏を
そっと触れながら観察すると
ポっと熱を発散させているような
灯りが点いたような処が数か所ある。

ここに、しばらく手を当て
気を通していると、
下肢や腰部に反応する点が現れる。

呼応するように
温かさやビリビリした過敏痛や
ヒビく感じが
起こるのである。


この反応点が、よくよく
注意して観ると
ラインに結ばれているのである。

その時節、その体状況に
応じた途絶えと改革の可能性
双方を含んだラインを
形成するのである。


例えば、
左足裏の第1指、親指の根元から
第1ショ骨付近にかけ温点があるとする、
それから同じ左かかと内側にも
温点が生まれている、、、、
ここに、ジッと気を通すと
左ひざの下部あたりに
にわかに温かさが生まれる。

ほどなくして、
大腿部裏の側縁、
次に左腸骨の上部外縁あたりに
だるさを伴った鈍痛が起こる。

これは、泌尿器系に添われた
呼吸器系の疲労であり、
ツカエのラインである。


どれどれと、
もう一つの入り口も確かめる。

側腹である、、。
これも左、
ジッと気を通すと
腸骨上縁を尻側から前面に
温点が周ってゆく、、、、

こちらは、呼吸器系に
添われた泌尿器ライン。


ラインは、身体の状況によって変わる。
100の身体があれば、
100種のラインがある、ともいえる。
温点と呼んだポイントも
同じである。

しかし、ラインの中途、
いずれからか、枝葉のように
放射状に流れ込んでゆく
ラインより速度の異なった
流路が通っている。

これが、上からや
下からでも、いくつかの
ツカエのライン、反応点のラインから
流れ込んで、ある一ヶ処に
集約されているのである。

これが、季節の焦点と云える、
急処なのである。


ラインにあるようで、どのラインからも
遠く、そしてもっとも実態として
近い点、なのだ。




これらの行方を
虚実の分布から、眺めることも
出来る、、、。
否、そちらの方が判りやすいのもしれない。

虚実の分布は、
まさに体勢そのものの観察となる。



それは何か、と問われれば、、、

それは、またいずれの機会に
譲るとするのである、、、。









 季よみ通信 ~白山サイド















«其の14 とっ散らかし、打ち捨てたくなる開の季節

2015年5月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ